第十八話



すでに海に太陽が沈み、周囲はすっかり暗くなっていた。

波が打っては返す砂浜には、いまだに私とコンプレックスがいる。

そして私の後ろには、やって来た六道家のヘリの姿も。



向かえに来た人たちは、

最高GSの私がいまだに妖怪を祓えていない事に驚いていたが、

その目標を見ることで納得した。


『……ああ、確かに。なんだかメンドそーな雰囲気が…』


六道家に使えているメイドも来ていたのだが、

彼女たちにもこの妖怪の厄介さは、よく分かったらしい。

もっとも『お嬢様の暴走よりは、やっぱりマシよねぇ』などと言う、

同情に足る台詞を口にした者もいたが。


冥子って、家でもやっぱり暴走する回数、多いのかしら?


それはそうと、ようやくここで事態に変化が見えた。

膝を抱えていたコンプレックスが、立ち上がったのだ。


『じゃあ、僕が行ってもいい場所が、あるんですね!?』

「そうよ。あなただからこそ、逝くべき場所がね」

『本当に、本当ですか?』

「さっきから言っているでしょ? 本当よ」


『僕がいていい場所。僕が行くべき場所。

 僕にも、そんな場所があるんだ! そうなんだ! 

 僕は、これまでずっと一人だと思ってた。でも、違うんだ。

 皆、それぞれ悩みがあって、そうやって生きてるんだ』


「そう、あなたと一緒に時を刻めなかった人にも、それぞれ理由があったのよ」


『皆、苦しんでいる。僕だけじゃない。

 皆、それぞれ生きてるんだ。

 だから僕にも、行くべきところがある。

 ありがとう、ございます……』


なんだか、綺麗な笑顔でお礼を言われた。

あっちは何かの真理を見つけたのかもしれないが、

付き合っていたこっちとしては、そんなことはつくづくどうでもいい。

私は適当に調子を合わせる。


「あー、はいはい。おめでとう」

『ありがとうございますっ!』

「…………じゃあ、そろそろ逝っとく?」


私は神通棍を構え、そして振り下ろした。

どのくらいの勢いで、と聞かれれば『息の根を止めるくらい?』という感じ。

先ほどから根気よく、私は快活な気の放射を続け、

このコンプレックスの負の放射を中和していたのだ。


そしてこちらに気を許し、すでに自閉状態から

性格が反転した状態にあるコンプレックスに、あの強力な防御結界機構はない。

神通棍はコンプレックスの頭にキレーにヒットした。



『へびゅ!? …………な、何するんですか!?』

「通過儀礼よ。あなたが逝くべき場所に逝くための」

『そ、そんな!? 何で殴られることが!?』


「えーっと、新たなる誕生には死が必要とか、何かそんな感じ?

 いいからとにかく殴らせなさい。

 こっちはあんたに付き合って、ストレス溜まってんのよ!」


『り、理由が適当!?』



いや、一応理由はちゃんとある。

このコンプレックスを極楽に逝かせるためには、私が祓ってやらなければならない。

自縛霊のような性質の妖怪だが、しかしあくまで妖怪は妖怪。

何らかの執着が消えれば、勝手にあの世に逝けたりする自縛霊とは、わけが違うのだ。

で、私のGSとしての基本的な除霊法は、シバいて吸引して、そのお札を処理するという方法。

で、相手は妖怪なので、できるだけ弱らせてから吸引したほうがいい。

とまぁ、そういう理由から、

私は泣く泣く、このコンプレックスを殴らなきゃいけないの。



「必要なことなのよ。ごめんね。私も心苦しいわ」

『う、嘘だぁ! だって、顔が笑ってますよ!?』

「辛いときにも笑顔を忘れない心って、大切よね?」

『っていうか、心からの爽やか笑顔じゃないですか!』

「ええい、うるさい!」

『あ、挙句こっちを、五月のハエ扱いですか!?』

「その通りよ! ほほほ〜! さあ、ハエらしくのた打ち回ればいいわ!」

『どんな風か分からないですよ、それ!』



性格が反転したせいか、やたらと素早い突込みを入れるコンプレックス。

ちなみに、こういう反転現象は、いろいろな物で見られるわ。

地方にもよるけど、ある昔話なんかじゃ、

家に着いた貧乏神のことを、

おじいさんたちが『神様は神様だし』と言って大事にしたところ、

反転現象で、何と福の神になってめでたしめでたし、とかね。



まわりに負のエネルギーを出していたのが反転したので、

今のコンプレックスからは、正のエネルギーが発せられている。

さらに防御機構が反転して、自分に対する敵の攻撃威力を倍化させる機構が備わっている。



だから、私も殴るのが楽しくて仕方ないのよね! 

正の波動が出てるから、動いていても疲れにくいし!

しかも、むっちゃくちゃ面白いわ! 悪いけど!

ちょっと小突いただけで、メガトン級のダメージよ! 

ああ、いたぶるのって、楽しい!



もう、このまま消滅するまで殴り倒してあげちゃおうかしら?

うーん。さすがにそれは、ちょっと可愛そうかしら?



う〜〜ん、いいわよね、別に。

この美神令子に苦労させたんだから。

あの厄介な防御結界を無くすために、

コンプレックスの身の上話を聞いてやったりとかね!

しみったらしいったら無かったわ。



「…………っ!?」



下らない事を考えていたその瞬間、私の背筋に悪寒が走った。


『…………ど、どうかしたんですか?』


問いかけてくるコンプレックスを無視し、私は周囲へと注意を向ける。

何か今、私の霊感に引っかかったのだ。

これは、何?

この感覚は、何?

分からない。

分からないが、今何かが、何処かで起こっている。



知人の、危機?

冥子かしら?

それとも、横島クンたち?

もしかして、家で留守番をしているおキヌちゃん?

あるいは、もっと他の何か? 



「…………無事で、いなさいよね……」


『いえ、かなりもう、ダメなんですけど』


「あんたのことじゃないわよ!」



私はコンプレックスをシバきつつ、他の人の無事を願った。

冥子、横島クン、愛子ちゃん…………あれ?

そう言えば、誰か足りないわね。ヘリには5人いたはずよね?

……あ、ああ。

ヘリのパイロットもついでに、どうか無事で。


「嫌な予感が、するわ……」


私は、空を見上げた。

夜の帳に散りばめられた星々は、

しかし私に何も言ってはくれなかった。


「ああ、もう!」


私は苛立ちを解消するために、渾身の力を込めて、コンプレックスを殴った。


『はわぁぁああっ!?』


殴られたコンプレックスは、砂浜から海へ。

そして海から沖へと、水切りの要領で吹っ飛んでいった。













            第18話      起きて、眼を開いて













自分のことを無力だなんて思ったことは、これまでに一度もなかった。

テストを終えたとき、

ユッキーとの訓練で叩きのめされたとき、

自分は弱く、頭が悪いとは何度も思ったことがある。


でも、心の底からどうにもならないと、本当に絶望したことは、ないつもりだ。

テストも、訓練も、

まぁ、いつかどうにかなるさ…………そう考えていた。


俺の頭では、学校のテストは絶対にできない。

俺の力では、ユッキーには今後も絶対に勝てない。

…………などという風に、悩んだことは無かった。



無力感。



最近の俺には、まったく無縁のもの。

何しろ最近の俺は、昔できなかったことが、次々にできるようになっていたから。


俺は、自分のことを特別だなんて、いつの間にか思わなくなっていた。

そりゃ、昔は思っていた。

ミニ四駆の大会で優勝した。

俺が一番だった。間違いなく、俺は特別だった。

ちょっとした優越感を感じていたし、

それにTVのアニメなんか見て、主人公に自分を投影していた。

カッコいいヒーローには、やっぱり男なら憧れるもんだろ?


でも、だんだんとそれも無くなった。

たとえば、それこそTVの中で活躍しているGS美神だ。

彼女は華麗に、そして特殊な力で、世にも恐ろしい悪霊を退治していく。

ああ、すごいな。

道場に行く前の俺が、TVで彼女を見たときに持つ感想なんて、そんなものだ。

あるいは、いい体してるな〜とか、全然違う視点での感想か。

俺がTVの中に入って、いつかカッコよく活躍する……なんて、想像しなかった。



そう。昔はヒーローや御伽噺を信じてた。



たとえば、よく漫画では『大人は信じないから、特殊能力が使えなくなる』とか言われる。

そういうのを読むたびに、俺は『自分は違う』と思っていた。小学校のころとか、特に。

俺はずっと『不思議』を信じる。

だから俺はいつかGSみたいに、すごい力を手に入れたり……とか。

あるいは、いつか空も飛べたりするんだ、とか。


でも、実際にそうなるはずも無く、中学に上がって、高校に入って。

クラスでTVの話で盛り上がっても、それはどこか、小さな頃と違っていた。

『俺がレッドになる!』

『お前なんかがなれるか! レッドに変身できるのは、俺だぞ!』

……そんな会話も、しなくなった。


ヒーローストーリーは、あくまで御伽噺。

誰であろうと、ああいう風にはなれない。現実にレッドはいないのだから。

それを皆もだんだん自覚して、そして単純に『御伽噺』として楽しむようになっていく。

自己投影もせず、感情移入も小さな頃より薄くなっていく。

『TVにかじりついて、眼を輝かせる俺』っていうのは、

ビデオデッキに、AVなどが入ってたりするときだけだった。



そんな中、俺はメドーサさんに会って、そして霊能に目覚めた。



身体能力は劇的に向上し、

学校まで毎朝愛子の机を担いで登校することも、まったく苦にならなくなった。

ああ、そう、愛子だ。

まるでドラマか何かのように、可愛い女の子と同棲。

まぁ実際、愛子は俺の姉みたいなポジションだけど。

でも、そんなこと『普通』じゃありえない。

その普通じゃない生活が、いつの間にか俺の普通になっていた。

昔、信じられなくなったのものが、再び信じられるようになった。

空さえも飛べるようになるかもしれない。そう思えた。

符を作った。呪文を唱えた。燃えた。そう、燃えたんだ。

俺に魔法が使えたんだ。

俺には無縁だと思っていたものが、使えたんだ。



俺には、これまで夢なんてなかった。



『美人な奥さんと、退廃的な生活をしたい』と言う夢はあったが、

よくよく考えると、そんなものは夢じゃない。ただの欲望だ。

自分から努力して、実現しようと思えるものが、夢なんだろうな、多分。

今の俺の夢は、メドーサさんの隣に立つこと。

ICPO・オカルトGメンに入ること。

妖怪や霊……もっと言ってしまうと、魔族とも仲良くできるGS……になることだ。

そのために努力をしている。強くなっている。

繰り返しになるけど、毎日道場でユッキーたちと訓練してる。


留年せずに卒業するため、

テスト前には愛子に手伝ってもらって勉強もする。


新しい術を習得するために、嫌いな読書もする。

前の俺からは、考えられないくらい、充実した日々。


だから、自分が無力だなんて、思わなかった。

一年前の俺と今の俺じゃ、比べ物にならないくらい、実力差がある。

以前の俺なら、まとめて10人相手をしても、怖くないと思う。



それだけ強くなったはずなのに、俺は何もできない。



「はっ、はぁ、はぁ…………」



足が痛い。

何故? 何なんだ……?

何で、俺の脚に、木が刺さってるんだ?

ああ、そうか。

さっきあのゴーレムに吹っ飛ばされて、木に激突したんだったっけ。



手も、駄目だ。

限界以上に溜めたC−マインを、あのゴーレムにぶつけたから。

それは、言ってしまえば暴発だ。

制御できないほどに内圧を高め、

そしてあのゴーレムの顔面で爆発させたんだ。

あれは爽快だった。

俺の両手と一緒に、あのゴーレムの頭が大爆発した。

コントなら、絶対にアフロになっているだろう程の大爆発だ。

普段のC−マインとは、比べ物にならない威力だった。

ゴーレムは爆発後、さらに燃えた。

C−マインと一緒に、俺は奴の頭に符を貼り付けたのだ。

愛子に見守られながら書いた符。その最後の一枚。

O−カウントの上乗せで、できうる限りの威力を込めた。


だから、暴発と符の灼熱が、俺の両腕を壊した。仕方のないことだ。

俺の未熟な技術であれだけの威力を出したら、必然的にそうなる。


……だが、あのゴーレムには傷一つつかなかった。

燃えているというのに、平然としていた。



俺は、無力だ。



@ーデコイもレイヤーも、奴を惑わすことはできない。

C−マインの符も、やつの体を傷つけられない。

P−アーマーなんて、あろうとなかろうと、奴には関係がない。

O−カウントを上乗せしても、彼我出力差はあまりに大きすぎる。

折神剣は、ゴーレムのパンチを受け止めようとしたら、砕けてしまった。



どうにも、ならなかった。

『ICPOに入る』などと言って、技名のアルファベットをそろえた。IとCとPとOに。

しかし、その技は何一つ役に立たなかった。

天竜童子との友情の印でもあったものも、もう今はない。



『〜〜〜♪ 〜〜♪』



あいつには余裕があった。

だから、鼻歌なんかを歌っていた。

勘違いしたら駄目だ。ギャグじゃないんだ。

俺は、簡単に狩られる存在。だから、相手は楽しそうなんだ。


週末のレジャー。

川釣りでの大物を狙い。


釣竿を持ち、鼻歌を歌うのがあのゴーレム。

そして狙われているのが、川の中で泳ぐ俺だ。

ああ、釣りじゃなくて、底引き網漁か。

俺がどれだけ逃げようとしたところで、逃げ道はないんだから。



「はぁ、はぁ……くそっ!」 



O−カウントは、もう常にカウントしっぱなしだった。

バテバテの状態で、それでも逃げた。



そして、簡単に追いつかれた。



途中で気づいたのだが、敵は2体だ。

そうだよな。最初にこっちを探りにきた気配が、そう言えばあったんだよな。

監視のA、追跡のB。大と小。

絶妙なコンビネーションで、獲物を逃がさない。

@−デコイを出しても、

遠くで監視している奴が、本体のゴーレムに情報を与えている。



その結果が、今の俺だ。



もう、動かない。手が、脚が……。

腹も引きつり、息がまともにできない。



俺は、無力だ。

どうにもならない。



勝てないし、逃げ切れもしない。

陰念との戦いより、たちが悪い。

相手に対する勝ち目など、何もない。

それこそ、最後のボスが最初のダンジョンで出たような力量差だ。



ユッキーなら、勝てるか? 無理だろうな。

あのゴーレムから受ける印象だと、

メドーサさんレベルじゃないと駄目なんじゃないか?

俺にとって最強の存在が、メドーサさん。

それと同じくらいなのが、小竜姫ちゃん。

どちらも強すぎて、どの程度強いのか、俺にはよく分からない。

あのゴーレムも、その領域だ。



…………愛子。

狙われてるのが俺なんだし、お前は一人で逃げろって、言ったのに。

俺が机かついで逃げるのは辛いし、

別々に逃げようって、そう言えば納得すると思ったのに。

愛子の机は、今どこにあるのだろう。

さっきゴーレムが殴って、何処かに吹っ飛ばしてしまった。

俺は視線を周囲に這わせる。



…………………ああ、あった。



……机の脚が、折れてしまっている。

愛子は、大丈夫なのだろうか。

愛子は、木の下で力なく横たわっている。

あの姿が消えていないということは、まだ生きてはいるのだろう。

机妖怪なのだから、死んでしまえば、そこには朽ちた机だけが残るはずだ。



くそ。愛子の……馬鹿。



…………俺の身代わりになって、

攻撃を受けてくれなんて、俺は頼んでいないのに!



本当に、まだ生きて、いるよな? 大丈夫、だよな?

……でも、俺が喰われた後、

あいつはどうなるんだろう。



………………俺は、無力だ。



死にたくない。

でも、もう逃げるだけの体力も気力もない。



『ゴハン、ゴハン〜』



悪気のなさそうなゴーレムの声が、俺の耳に届く。


くそ……。



もう、捕食者はそこまで来ている……。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





存在に理由を与えられ、この世に発生したその瞬間から、

俺はずっと眠りについたままであり、

ゆっくりと時間をかけて、覚醒の時を待っていた。



俺という存在を、その身に宿した存在……宿主は、

これまた俺と同じく未成熟な存在で、

とてもではないが、俺という存在を受け入れるだけの力がなかった。

だからだ。

俺は俺を宿主が受け入れられるその日まで、眠っていればよかったのだ。



宿主の力を、少しずつ頂戴して蓄積し、自身の力として。

ゆっくり目覚めるそのときまで、時間を過ごす。



俺は少しずつ、宿主と混じり合っていく。

しかし完全に同化することはない。

俺はあくまで独立した存在であり、宿主を助ける存在だからだ。



そう考えると、宿主という表現は、少々語弊があるかもしれない。

生み出されたその瞬間から持っている知識で、俺はそんなことを思考する。

俺は寄生虫ではない。

だから宿主ではなく、主人と表現したほうがいいだろう。

俺は、そう……主人の補佐をする存在。いわば執事か。



俺の主人はあまりに未成熟だ。

俺の生みの親は、主人をより良い方向へと導くために、俺を生み出した。

よって俺の存在理由は、主人の補佐役であると同時に、世話をする保育士でもある。

その対価として、俺は主人から力を受け取り、自分のものとして消化していく。



いや、これもまた適切ではない。いささか表現が温和すぎる。

ここは一つ、未熟な弟子を見守る師匠とでも言うべきか?

俺の能力は、この主人にはあまりにも大きく、どうせ今のままでは使いこなせはしない。

それを、使いこなせるよう導くのだから、主人のことを弟子と称しても、いいだろう。

この未熟な宿主……いやいや主人、あるいは弟子には……少々腹も立っていたことだ。

成長しているようで、大局的に見ればまったく成長していないのだ。



さっさと、もっと強大に成長して見せろと、俺は夢うつつにも……



……………うむ? 



何だ、この感じは。



………………むぅ? 



どうやら、主人は随分と危機的状況にあるらしい。

眠りについていながらも、一応俺は外部の状況を知ることができる。

何しろ、俺は主人と感覚を擬似的に共有することもできるからな。

逆に、主人が俺の感覚器……というか能力を使うには、まだまだ時間が必要だろう。



まぁ、そんなわけで。

眠っていながらも、俺は主人の体に起こった異変に気づく。

眠っている俺に気づけるほどの異変なのだから、事態は急を要するのだろう。



さて、外では何が起こっているのだろう。

俺は、主人の状況を詳しく走査する。



…………っぉお!?



とたんに、俺自身にも強い激痛が走った。

主人の体の中に存在する俺には、体など存在しない。

よって、感覚はあくまで情報でしかない。

しかし、そのあまりの情報量に、俺の存在そのものにも、強い影響が出たのだろう。

擬似的なものであるはずなのに、俺は主人の中で痛みに転げまわる。

ええい、何だというのだ。

しかし、実際にこれだけの損傷を受けた主の心境は、如何なるものか。

気づいてみれば、すでに主人の脳内では、激痛に対する麻薬物質が生成され始めている。



さて、実際どのくらいの傷を、我が主は負っているのだろう?



……むぅ、これは……。



まず、主人の両腕は使い物にならなくなっている。

どちらとも、普通の人間ではありえない方向に、腕が曲がっている。

また脚も、片方に大きな損傷がある。左側だ。

どうやら、何かが突き刺さっているらしい。


これは……どうやら樹木の枝だ。

太ももを貫通しているな。

骨と大きな血管には損傷がないが、だからと言って無視できるものではない。

感染症に関しても、注意を払うべきだろう。

まったく。どういう経緯で突き刺さったのだろうか。

眠っていた俺には分からないし、まぁ、知っても栓のないことだが。



俺は主人の視覚を使い、周囲の状況を調べる。

むぅ、随分と情報が不鮮明だ。

主人の目は霞がかかっており、せいぜい1m先までしか、見えない。



だが、状況を把握するには、十分だった。

主人のすぐ目の前には、異形な巨体が迫っていたのだから。

そしてその偉業の足元には、主人が大事にしていた武器のなれはてが転がっている。

すでに、形状的には、何か分からない。

何しろ、一応は棒状だったはずのものが、

砕けて細かい破片となってしまっていたのだから。

そしてさらに視線を動かすと、一人の女が眼に止まる。

木の根本に力なくうずまっているので、その表情は不明だ。

おそらく意識がないのだろう。

意識があったとしても、笑顔でないことだけは、容易に想像できる。

彼女は、我が主の従者である。

主人は大仰で不遜な性格はしていない。従者にも、優しく接していた。

おそらくあの従者も、

主人は優先的に逃がそうとしたのだろう。

この異形を前にして、主人とあの従者が無事に逃げられる可能性は、きわめて低い。

しかし、従者は主人の、

そんな気遣いを受け入れることができずに、主人を助けようと異形に立ち向かった。

そして異形は自分に立ち向かったあの従者を、大した障害とも考えぬまま、撃破した。

そんなところだろう。

眠っていたので確証はないが、この想像には自信があった。

まぁ、意味もなく、やはり役にも立たない自信だが。


異形が、ゆっくりと主人に接近し、そしてその頭を掴んだ。

どうやら、主人の命が目的らしい。正確には、魂か。

主人は人間にしては、それなりに大きな魂を持っている。

さらには、俺のような『おまけ』までついているのだから、さぞかし美味いことだろう。



「くっ……」



主人の口から、小さな声が漏れる。苦悶と怒りに満ちた声だ。

主人はすでに使い物にならなくなった指の先から、

自身の命を削って、小さな『力』を発射する。

霊気の練りこまれた、凶悪な弾丸だ。

小さくも、その初速は人の眼に止まらない。

それは異形の『眼』に、寸分たがわず着弾した。

主人は『ざまぁ見ろ』と、胸中で呟いた。



だが、異形はまったく気にしていないようだった。



装甲的に考えて、もっとも弱い部位への、主人の最後の力を振り絞った攻撃。

それはこれまでの攻撃の中で、未熟なこの主人にすれば、会心とも言えるできであった。

しかしそれでも、異形からすれば春の日の小さな風よりも、些細なことらしい。

異形が主人の頭を掴む手に、力を込める。

異形としては、主人の魂が欲しいから、これまでは殺しはしなかった。

ただ、それだけだ。

そう。主人が生きていたのは、ただそれだけの理由でしかない。

主人の逃げ足は、この異形が追いつけないほど速かったわけではないのだ。



このままでは、喰われる。



むぅ。

少々……いや、かなりまずい状況かもしれない。

主人に死なれては、俺の存在も消えてしまう。

主人が成熟するまでを待って、これまで眠っていたと言うのに、

このまましっかりとした『覚醒』もなく、俺は消えるのか?

自身の主人にすら、その存在を気づかれぬまま? 

おい、ふざけるな。

生まれる前に死ぬなど、そんな運命を俺は享受する気はない。

仕方がない。

時はいまだ満ちてはいないが、とにかく起きることとしよう。

寝ていて死ぬくらいなら、無理にでも起きたほうがましだ。



……さぁ、我が主よ。俺は起きたぞ。

まだ、貴様に消えてもらっては困る。

俺の生まれてきた意味まで、消えてしまうではないか。



『もう、駄目だ……。俺は……。俺は、俺は……』



死を前に、諦めの境地に達しようとする主人。

これまで主人は、自身よりも強い敵と、何度も相対してきた。

主人が弱すぎるのだ。

主人が、未成熟すぎたのだ。

だから周囲には強いものがごろごろいた。


だが、主人はいつか、それらの敵を乗り越えられるものだと思っていた。


だから努力もできたのだろう。

決して無理だとは思わない到達点だからこそ、人はそれを見据えることができる。

だが、この異形はあまりに強い。

人の身では、何十年修行したところで、倒せはしまい。

そのことを本能的に悟ってしまったから、主人はもう諦めている。

また、あの従者が動かなくなってしまったことで、今の主人には守るべきものもない。

かの従者がまだ健在ならば、それを守るために自身を奮い立たせられようが……。



獅子の前で、子兎が震え上がっている。

すでに獅子の腕に掴まれ、逃げられず

そして……子兎の頭の上まで、獅子の口は迫っている。


だから子兎は、諦めてしまう。

頭を振って抵抗しようにも、

すでに薄皮一枚のところまで、獅子の歯は来ているから。




だが、待つのだ、主よ。



貴様はただの子兎ではない。

その体の中に、俺を内包する子兎だ。

力が欲しいのならば、仕方がない。

少しだけ分け与えてやる。

扱いきれるかどうかは、分からないが。

まぁ、今はここの状態から脱することが先決だ。

後で色々と代価を清算せねばならなくなるだろうが、命には代えられまい?


さぁ、起きろ馬鹿者。


まだ永眠するには早い。

今まで眠っていた俺も起きたのだ。お前が諦めてどうする?

それにあの従者は、まだ助かるやも知れんぞ?

さぁ、早く起きろ。さっさと起きろ。

貴様の命、すでに貴様だけのものにあらず。

俺のものも含まれているのだ。

あの日……功績を称えて祝福された日から、お前はもう、俺を内包していたのだ。





『あんた、誰だ? 俺の中って、どういう意味だ……?』





主の胸中に、疑問が湧き上がる。

この状況でも疑問を発せられると言うのは、それはそれで強いと言えるかもしれない。

先ほど無力感から、すべてを諦めかけていたのだ。

何かに関心を持つだけ、マシだと言える。

やはり、根は強固にして熱いか、我が主は。



……それとも、もうすでに今の自分に現実感を感じられずに、ただ問うだけの馬鹿か。



『俺のことは、気にするな。今は選択しろ。

 俺を使って、この場を脱するか、それとも何もせずに死ぬかだ』

『使えば、どうにかなるのか?』

『それはお前次第だ、我が主よ』

『…………使えるものは、使う。それで、お前は誰なんだ。名前は?』



むぅ?

名前など、考えてはいなかった。

俺は俺であり、主人を補佐し、導く一種の道具でしかない。

…………まぁ、道具にも名前は必要か。

名前を与えることで、存在も概念的にも強くなるだろう。

しかし、なんと名乗ったものか。

とてもではないが、ペガッサスだとか、クリュサオルなどと名乗るつもりはない。

どうせなら、ちょっとした遊び心で、アテナとでも名乗ってみるか?

いや、さすがにそれは生みの親に対して失礼だろう。

俺のできること。

俺の特異な能力。

そこから名乗るのが、一番良いのかもしれない。



『我が名は……魔眼コーラル』



しばしの黙考により、俺は俺の名前を決定した。



『こーらる?』


『珊瑚を意味する。

 俺の生みの親の首から血が滴り落ち、

 それが赤い珊瑚になったと言う物語がある』



俺は無知な主人に、ちょっとした雑学を教授する。

こいつは、俺の生みの親のことを好いている割には、何も知らないのだな。

まぁ、それらは生き延びた後で、たっぷりと教えてやればいい。

俺は生みの親である者と、この馬鹿な主人がうまく行くことを願っている。

そういう風に『設定』されて、生み出されたのかもしれないがな。



『とにもかくにも、まずは離脱する』

『……振りほどけないんだ』


『俺は魔眼だと言っただろう。

 俺を使え。使いこなせ。出なければ、死ぬ。

 お前が死ぬと、俺も消える。お断りだ、そんなことは』


『俺だって、まだ死にたくない』

『ならば、死ぬ一歩手前まであがけ。諦めるな』

『ういっす』



素直で前向きなところは、十分に好感が持てる。

取り合えず、俺が最初に下した『我が主の評』が、それだった。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





『いいか、よく聞くのだ、主よ。

 聞き返していては、貴様は敵の腹の中だ。聞き逃すな。

 まず、俺は、俺の生みの親の能力を色濃く受け継いでいる。

 つまり、視線での魔力操作により、石化・硬化・硬直化が可能なはずだ』


『え? お前の生みの親って……』


『聞き返すな、阿呆。

 とにかく、お前は鋭い視線で、奴を睨みつけろ』



頭に直接、声が響く。

深い、しかしどこか甲高くも感じるような声だ。


俺という一人称を使用しているのだから、

おそらく男なのだろうが、なんとも掴みづらい声だった。


俺は、その声に導かれて、閉じていた瞳を開く。

そして俺の頭を掴んでいるゴーレムの顔を、睨みつける。



『後は俺がやる。睨んでいろ。

 ああ、霊力が足りん。

 根こそぎ奪うから、気を引き締めろ』



そう声が響いたかと思うと、俺の魂は昇天しかけた。

ああ、しかけた。

少なくとも俺はそう感じた。

背筋にこもっている俺の幽体を、

まるで見えない手が引っ張りさろうとしたようだった。



『気をしっかり持て。今眠れば、喰われるぞ』

『あ、ああ』

『前を見据えろ。そう、簡単なことだ。

 貴様は前を向いていればいい。ただ、それだけだ』



白目をむいてしまいそうになるのを必死に押さえつけ、

俺はゴーレムを見据え続ける。

するとゴーレムの体の表面……特に俺が睨みつけた部分を中心として、

ピキピキと石になっていく。無敵の装甲を誇ったやつの体が、石になっていく。

意識と魂をかき消されそうになるほどの苦痛が、常に今の俺にはある。

しかし、ある種の爽快感があった。



ざまぁ見やがれ! 

そう俺は思った。



ゴーレムは体に起こった異変に驚き、俺をその場に捨てる。

俺は尻餅をつきつつも、ゴーレムから視線を外さない。

前さえ向いていればいい。ああ、その通りだな。

あんたの言うとおりだよ、魔眼コーラル。



ゴーレムはどんどん石化していく。俺の鋭い視線を受けて。

ああ、あれほど強かったゴーレムが…………。



『主よ。今のうちに逃げるんだ』

『? 何でだ? ゴーレムは石になっちまったぞ?』

『阿呆。俺たち程度でどうにかなる敵ではない。

 今の奴は、ただ単に驚いているだけだと思われる。

 一時撤退しろ。気配を消せ。そして霊力を回復させろ』



魔眼コーラルの言うとおりだった。

完全に石像と化したはずのゴーレムが、なにやら小刻みに振動している。

そして石の表面に、氷でも割れるような音ともに、ヒビが入っていく。

おそらく、体の表面が少し石化しただけで、中身には全然ダメージがないのだろう。



『俺はまだ目覚めるはずではなかった。

 つまり無理矢理な寝起きでこれだ。上出来なほうなんだぞ?』

『あ、ああ。とにかく逃げればいいんだな』

『阿呆。そのまま逃げられると思うのか。木を抜け』

『なっ……』



いくら俺が馬鹿でも、多少の知識はある。

よくこういう状態になった人が『密着! 緊急医療24時』とかの特番で出てくる。

その場合にしてはいけないのは、その刺さったものを抜くことだ。

刺さったものを抜くと、そこからどばっと血が出て、失血死するのだ。

それに、その理屈を無視したとしても、

とてもではないが、この木を抜くのは無理だ。

だって、途轍もなく痛いんだ。

さっきよりは麻痺した感はあるが、だからと言って、無視できる痛さではない。



『阿呆。何を絶句してるんだ。

 ただ抜くはずがないだろう。

 抜いたらすぐ、脚を睨め。石化で出血を止める』


『ええ!?』


『その足りない頭に叩き込んでおけ。

 斬撃、刺撃などに対し、

 石化で怪我の進行を止める処置もあるということを』


コーラルの指導を受け、俺は左足に刺さった木の枝を引き抜く。

見たくもない光景だが、視線で石化させる以上、見なければならない。

脚の中の肉を裂きつつ、木の枝がゆっくりと引き抜かれていく。

またそれと連動して、俺の左足の太ももは、ピキピキと石に変化していく。

木が抜けるのと、石化が進行するに連れて、俺の脚には激痛が………


『……あ、あれ? 痛くない』


そんなに痛みは無かった。

むしろ、石化が進めば進むほど、その部分の痛みは鈍くなった。


『神経も石になる。感覚はなくなって当然だ。

 分かったら、さっさと逃げろ。すぐ敵は来るぞ』


『う、ういっす』



コーラルの言葉に従い、俺はその場を駆け出す。

片脚の一部が石になっているため、少々走りづらい。

また、ここは明かりがない密林だ。くそ、動きづらい。

実にもたもたとした動きだが、

まだゴーレムは完全に石化から逃れてはいないので、大丈夫だ。

俺は壊れた愛子の机を抱き上げ、その場から姿を隠した。



ごめん、愛子……。

4本脚の、3本が折れちゃってるよ……。



『助けたくば、生き残れ』


俺の胸中での呟きに、コーラルが言葉をかける。


『主がその従者を大事にしていたのは、俺も知っている』

『……コーラルってさ、何なんだ? 

 俺のことを主と言ったり、貴様って言ったり』


『俺はお前の道具だ。しかし、俺はお前を見くびっている。

 なぜならお前は、道具であるはずの俺に《使われている》からな』


『……ごもっとも』

『早く成長することだ。俺の生みの親も、それを望んでいる』

『…………生みの親って、誰だ? さっきから気になっていたんだけど』


『気づいていないのか? メドーサだ。

 俺は先日のキスのとき、お前の中に流し込まれたメドーサの魔力が形になったものだ。

 まぁ、その辺については、後でじっくり説明してやる。

 あの敵から逃げるには、長期戦を覚悟しなければならない。

 とにかく、早くこの場を離れろ。敵は1体ではなく、1対だ』




俺はコーラルの言葉にうなづいて、密林の中、脚を引きづっていく。

どうにもならない、無力感。

それはいつの間にか、俺の体の中から消えていた。



コーラル。



考えるまでも無く、こいつのおかげなのだろう。

こいつ自身にも感謝だが、それ以上に、

こいつを俺に授けてくれたメドーサさんには…………もう、感謝しきれない。

生き延びて、お礼を言わなきゃ。

絶対に。



『ところで、主よ』

『ん?』



木の根に脚を取られつつ進む俺に、コーラルは声をかけてくる。



『あの敵をどうしたい? 

 仮に……あくまで仮にだが、あの敵を倒せる状態になったとしよう。

 殺すか? それとも封印するか?

 それとも、どうにかして保護するのか?』


『お、俺は…………』


『まぁ、今のお前では殺すことも、保護することもできないがな。

 考えておくのも一興だろう? これから、お前が進むべき道だ。

 答えを出したなら、聞かせろ。自分の主人の進む先には、俺も興味がある』



コーラルは特に気負いもない口調でそういうと、また黙り込んだ。

俺は何と言えばいいのかわからず、黙り込んだ。



あの敵……。

ゴーレムは、俺を食べるために襲ってきた。

久しぶりの、美味しそうな魂だとか言っていた。

そりゃ、そうだろう。

こんな密林に、人がちょこちょこやってくることはないだろうから。

俺はあいつに攻撃が通じたとき、ざまぁ見ろと思った。

当然だ。自分を捕食しようとする敵が苦しい目に遭うのなら、それは爽快ですらある。

でも、ちょっと待て。

あいつは、本当に悪い敵なのか?

人食を悪いと言うのは、俺の価値観だ。

人を主食とする存在は、それ自体が悪いわけじゃない。



ピートも、人の血を吸う種族の一員だ。

だが、だからと言って存在そのものが悪いわけじゃない。



俺は…………

自分を食おうとしたあのゴーレムを、どうしたい?

絶対に殺したいとは、思わない。

だが、このまま出て行って、分かり合えるとも思わない。

今のあのゴーレムとは、会話が成り立たないのだから。

弱い俺では、あのゴーレムに人以外のものを食べるよう、教育してやることなんてできない。

自分の身を守れなければ、教えようと近づいた時点で、俺が食べられてしまう。



「俺は……」



いや、今はどれだけ考えても、意味がない。

まずは、逃げなければならない。

狼に襲われている人間が、襲ってくる狼の愛護を叫ぶ。

そんなシュチュエーションは、TVのコントの中だけで、十分だ。



何にするにしても、もっと力が必要だ。

愛子を守るためにも、俺たちがここから逃げるためにも。

そして、今後あのゴーレムのような、もっと強い相手と向き合うためにも。



『……まぁ、なかなかいい結論だ。

 そう、お前に足りないのは、力だ。

 知識も、まったく足りないがな』


『やかましい。大きなお世話だ』


『小さな世話だ。大きな世話は、これからしていく』



俺の頭の中にいる相棒は、なかなかどうして、口の悪い奴だった。

俺はこんな時だと言うのに、苦笑を漏らす。



ありがとう、コーラル。

ホントは様付けするべきだよな、命の恩人だから。

でも、お前はそういうの嫌そうだから、呼び捨てとくよ。

だから、ありがとう。

俺は、絶対に強くなるから……。

だから、俺に力を貸してくれ。



『御意』



コーラルは、短く呟いた。



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