第十六話
天国や地獄に一番近いかもしれない次元の狭間の世界。
どこまでもが白く……ここという場所そのものが、人の神経を狂わせようとしているのではないか?
そう邪推してしまうような、何もない世界。何もなかった――――――そのはずだった、世界。
そこは今や、俺にとってひどく懐かしい空気を感じさせる世界となった。
何故かと言えば、答えは簡単だ。俺がいて、ひなた荘の皆がいる。ただ、それだけのことだ。
キツネさんはこれまでが忙しかった反動からか、これ以上ないほどダラダラと生きているし、
スゥちゃんは知的好奇心を刺激されたのか、ラズを従えて、この空間そのものの調査を連日続けている。
しのぶちゃんは、居住スペースとなっている戦艦内で嬉しそうに家事に勤しんでいるし、
素子ちゃんや可奈子は、日課となっている修行をこなしながらも……やはりのんびりと時間を過ごしている。
俺となるが誘拐されて以降、無残に砕け散った日常。それを今、皆は心の底から味わっている。
かく言う俺も、胸中は穏やかだ。
ぱっと思いつく一番の心配と言えば、二人の可奈子だった。
俺が連れてきた中学時代の可奈子が、ここの可奈子とうまく行くのか?
仮に俺が大学時代の俺と出会ったならば……まず、うまく行かないだろう。俺は大きく変質してしまったのだから。
だから俺は、二人の可奈子の関係がどうなるかと心配していたのだが――――――二人は意外とあっさり、和合している。
中学時代の可奈子は、ここの可奈子を『姉』と捉え、ここの可奈子は中学時代の可奈子を『妹』として捉えているらしい。
擬似姉妹だな。スゥちゃんとラズの擬似母娘とは、また少し意味の違う擬似的な関係だ。
だが……俺は過去から大きく変質したが、可奈子はそう変わっていない。だからうまく行っている……らしい。
まぁ、そう言われると、そうなのかも知れない。
今の俺と大学時代の俺ではうまく行かないだろうが、大学時代の俺と高校生の俺ならば、うまく行くだろう。
それこそ目指すべき理想と言うか、目標が目の前に具現化したも同義なのだから。
まぁ、そう言ったわけで……ここでの日々は、平穏だ。
俺の身体がいつまで持つのかは、分からない。ここは時間の流れが曖昧だから、余計に……。
しかし、俺には今しばらくの時間が残されている。これは事実だ。
別に戦闘をしているわけでもないので、次の瞬間に溜まった疲労や過負荷でぽっくりと逝くってこともないからな。
だから、俺は夢想する。ここになるがいれば、と。
ここはこんなにも居心地がいいんだ。
あとは、なるがいれば……。
なるはどこにいるのだろう?
硬質化したその身体は、過去に回収したこともあった。
その身体には自意識がなかったが……しかし、死んでいるとも思えなかった。
なるは今、どこにいるのだろう?
身体が硬質化し、彫像となったなる。
その魂は、どこに行ったのだろう?
俺の今の望みは、なるとの再会だ。
人間は余裕が生れると、どんどん欲深くなるものなのだなと、そう実感する。
全てを捨てたと自認していた俺は、果たしてどこに行ったのか?
いや……考えようによっては、自暴自棄を続けて家族に心配させる男ではなくなったのだ。
好ましい変化だろう。もちろん、俺に殺された人々は、憤怒の表情を浮かべるかもしれない。
しかし、あえて言おう。愛した女に会いたいと願って、何が悪い?
どうせ地獄に落ちると言うなら、せめて現世では幸せを味わいつくそう……などとも思う。
「――――――会いたいな」
その俺の呟きは、誰に聞かれるでもなく、白い世界に溶けていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「遅くなって、すまなかった」
ドアを強引にこじ開け……いや、破壊して、一人の男が部屋に入ってきた。
黒きバイザーで顔を隠し、黒き外套を爆風になびかせながら。
声は聞き取りにくかった。もとより独り言だったのだろう。小さく、くぐもっていた。
私はその男を誰よりも知っている。自分が愛し、愛された存在。己が半身。
男の外見からは、そう特定する要素は見当たらないけれど。
しかし、感じる。例え外見が変わっても、分かる。
「俺、変わったよ……なる。いっぱい、人を殺したし、いっぱい物を壊した」
夫・浦島景太郎の独白は続く。
景太郎自身が近くに寄ってきたため、声が先ほどよりも鮮明に聞こえる。
いや、鮮明に感じる、かな。私は自分の聴覚を通して、景太郎の声を聞いているわけではないから。
私の耳は、身体は……もうとっくの昔に、普通じゃなくなっているから。
「罪悪感がないわけでもないが、な。後悔も。だが」
景太郎はそう言いつつ、『私だったもの』を遺跡から取り外していく。
鉱物に近い輝きを持つ、私の体だった“それ”は、軋みとともに剥がれ落ち、景太郎の胸の中に納まっていく。
俗に言うお姫様抱っこという感じである。私の硬い身体は弛緩しないから、マネキンの運搬みたいで間抜けな光景。
――――――なのに、笑えない。悲しさや悔しさだけが、私の胸の中に湧き上がってくる。
私はどうして、景太郎の腕の中にいないのだろう? 身体は……彼に抱かれているのに。
「……遺跡は全て破壊する。今後、俺たちのような存在を出さないために。それが、俺の最後の仕事だ」
景太郎はこちらを鋭く睨みつけながら、言う。そこにこもるは、殺意。
怒った顔も、拗ねた顔も、泣き顔も見たことはあった。
けれども、景太郎が手負いの獣じみた表情を浮かべるのは、見た事はなかった。
そして、景太郎が、私だったものを抱きかかえ、部屋を出て行く。
そして、突然部屋が、押しつぶされるように光で溢れて・・・・・・。
そして、白くなって。
そして、そして、そして・・・・・・
そして――――――私はずっと、ここを歩いている。
ここは、白い場所、空間、世界。下も、上も、横も、何もなく、ただ、白い。
深い深いプールの中に、ただただ浮かんでいる感じといえば、いいのかな。
ううん、水の抵抗感がないから、やっぱりそれとも少し違う。
そんな場所を、私は歩いている。歩いていると感じている。
今の私には……足はないけれども、歩いてる。そう感じている。
正確に言えば、私には体がないの。
体をイメージすることが出来ないから。
重力が感じられない。かといって、おかしな浮遊感も感じられない。
だから、自分の体という存在を感じられない。
おかしな話。
私には記憶がある。自分の顔も覚えている。指についていた結婚指輪のデザインすらも、覚えている。
それでも、自身の体を、この世界で構成することが出来ない。
でも、自分が前に進むことはなんとなくイメージできた。
何でだろうか。何で、私は歩いているのだろう。
ずっとずっと歩いてたから。歩き始めたきっかけを思い出せなくなってる?
私には記憶がある。思い出も。……なら、何で思い出せないの?
私が、なぜこの世界にいるのか。ここはどこなのか。なぜ、歩いているのか。
私は、前を向いて歩いている。
……足がないのに? 前?
……この世界……上下左右の区別のない世界における『前』が、どの方向かはわからないのに?
とにかく、進んではいる。そして、私はそれを、歩いていると感じている。
それでも、足はイメージできない。
おかしな話。……あれ? この話は、さっき考えた気もする。
ここはどこ?
ここはひどく精神的な世界だとは思う。一言で言うなら、天国?
雲を、風を、そして自身の羽根を感じられれば、私は天使になれるかもしれないけれど。
そうすれば、歩く必要もなく、飛んで行けるかもしれないのだけど。
でも、無理。私は空を飛んだことがない。
夫と一緒に、空駆ける飛空挺から落ちたことはあるけれど。
夫。
……夫。
ここに彼はいない。
誰もいない。
ここには私しかいない。
夫。
そう、私は。
そうだ。私は、夫に会うために歩き出した。
彼の後姿が目に焼きついて……光を見て……ただ、その光の向こうにいるはずの彼を求めて。
『――――――あっ……』
私は今、何を考えていたのだろう。
何か、大切なことを忘れていた気がする。そして、それを思い出したような気もする。
ダメだ。私の頭は、意識は、どんどん鈍くなっている。それを、今はまだ自覚できているけど。
いつか何も、本当に何も感じられなくなって、ただ、歩き続ける存在になってしまうのかな?
そうなる前に、ここを出なければならない。
出れたとしても、彼のことを忘れていては、何もならない。
……彼。
彼? うん、彼。そう、私の夫。
まだ覚えている。大丈夫。
そうやって、歩き続ける私の前に……
一人の少女が姿を現した。
「女の、子?」
久しぶりに見る他人。他者。自分とは違う存在。
鈍化していた思考が、少しだけ加速していく。
あぁ……。うん、そう……そうだ。
個が個である為には、比較する対象が必要。
一人だけでは、何も分からない。
まぁ、当たり前な話。人は、人の中で生きるから。
社会から離れ、一人で静かに暮らす人も、『社会』が存在するから、『人』が存在するから、『離れる』ことが出来るのだ。
世界の人が自分だけだったら。
人は自分を見失う。
ついさっきまでの私もそう。白い世界で一人だけ。そりゃ、頭も鈍るわよ。
私は、少女という比較対象を手に入れて、正常な意識を取り戻す。
私は鈍って、大事な記憶を零しかけている頭を少し振った。
うん、思考の速度も……問題なし。
さっきまでは一桁の足し算すら解けそうになかったけれど、今なら小難しい数学問題もOKよ。
自身の状態を再確認してから、私は視線を少女に戻す。
長く、長く歩いてきたけれど、ここで人に出会うのは初めてだ。
誰だろう?
長く深い蒼の髪。薄い桃色のワンピース。その小さな手には撫子で作った花飾り。
白い空間に、ちょこんと鎮座し、微笑んでいる。
「あなた、誰?」
私は問いかけた。初めに自分の名前を言うべきかもしれなかったけれど。
この白い世界で初めて人に会ったせいか、多少興奮し、礼儀は忘れていた。
「ユリカ、ミスマルユリカ。貴方は?」
まさに天真爛漫な、少女。無邪気に微笑んでいる。
私は、誰? 大丈夫。誰なのだろうかと、戸惑うことはない。
さっきまでボケてたけど、今は冴えているから、ちゃんと言える。
「浦島なるよ」
「うん、なるさん、よろしくね!」
とりあえず問題はないみたい。ちゃんと自己紹介は出来た。
私は、私の名前を覚えていた。けれど、会うのがもう少し遅かったら、忘れてたかもしてない。
意味消失しかけていたことに、私は今さらながら冷や汗をかいた。
自分がどういう存在か分からなくなるなんて……なんて、不幸?
出会えた幸運に感謝しつつ、私はユリカちゃんに近づくようにイメージ、視線を動かすようにイメージ。
それらから、私は私の体そのものをイメージする。
視線を動かす。腕を動かす。うん。今、私には腕がある。
視線を、足元に動かす。うん、足も、ちゃんとある。
大分慣れてきているのかもしれない。
この不可思議な世界を、ただぼんやりと歩いてきただけの私だけれど、今なら走ったりも出来そうだ。
……服は? 改めて自身を見下ろしなおすと―――何故か、ウエディングドレスのようなものを着ている。
ユリカちゃんの薄桃色のワンピースから、そう連想したのかな。
もし、私が無意識的に、一番最初に思い浮かべた服がこれなら……う、なんか、不謹慎というか、子供っぽいというか。
まぁ、いいか。ユリカちゃん以外には誰もいないし、たいした問題じゃない。
何より、気に入らないわけじゃないから。
「その花の飾りは、どうやって作ったの?」
この何もない白き世界で、一人きり。普通、人の精神では耐えられないと思う。事実、私はその意識をかなり鈍らせていた。
しかし、自我を保つばかりか、衣服や小物まできちんとイメージすることが出来るのは、やはり柔軟な子供だからだろうか。
いや、もしくは――――――もしくは、彼女は私とは比べようのない、異質な存在なのかもしれない。
何しろ、ここは『普通の世界』じゃないのだから。
私がそんなことを考えていると、ユリカちゃん……見た目からそう呼び続けることにした……は、私に花飾りを手渡しながら答えた。
「こうやって、ここを通して……あれ? そうそう、あ……。うん。これで出来上がり♪」
危なっかしい手付きで、花飾りを新しく作っていくユリカちゃん。
白い空間に腕を伸ばし、花を摘むような動作をすると、その手の中には花がある。
「たくさんあるから、一緒につくる?」
ユリカちゃんはそう言って、一度周囲を眺めてから、私を見つめてきた。
どうやら、私とは違った世界を感じているらしい。彼女の眼に、この世界はどう映っているのだろう?
「ユリカちゃん、ここは、どこ?」
「えー? なるさん、ここユートピアコロニーだよ?」
当然、という感じで、ユリカちゃんは答える。
「コロニー?」
コロニー。日常的に使用される言葉じゃない。
この言葉は、昆虫類の巣や、または宇宙での活動拠点としての意味を持つ言葉。
そして、後者のコロニーと呼ばれるものは、まだ完成に至ってはいない。
2009年に建設された新型国際協同宇宙ステーションも、居住性は低く、最大収容人数1250人と、少ない。
人類が本格的に、気軽に宇宙へと飛び立つには、あと10年ほどかかるといわれている。
ちなみにその宇宙とは、主に大気圏を少し出たあたりと、かなり微妙なところ。
月はムーンクエイク問題が解決されていないから、土地活用が難しいって言うし……。
「あの、それはどこのコロニー?」
続く私の問いに、ユリカちゃんは多少戸惑った顔をしていたが、素直に答えてくれた。
「どこって、火星だよ?」
「……火星?」
衛星軌道上でも、月でもなく、火星。話が飛躍しすぎている。
私は2000年代の人間。でも、彼女もそうだとは限らない、ということだろうか。
ここは、白き世界で、時間の流れがひどく不安定だ。
客観的に計れる、刻めるものがないから。全ては精神による体感。
実際、今まで私はずっと歩き続けてきた。その時間は100年、200年という『悠久』にも感じられるし、また、実は一瞬という『刹那』のような気もする。
分らない。何が正しいのか。
ユリカという少女に見える花畑やコロニーの見えない私が、おかしいのか。
それともこの少女が、ただただ幻想に生き続けているのか。
まぁ、どちらにしても救いがないような気もする。
あぁ、早くここを出たい。そう考えつつも、私はユリカちゃんとの会話を続ける。
噛み合わない会話は疲れるけれども、それでも私は人との会話に飢えていた。
何て言うか、砂漠で喉が極限まで渇くと、いっそ泥水でもいいからすすりたいと言うか?
いや、そこまで言うと、ユリカちゃんに失礼かもしれないけど。
「ねぇ、火星って……」
私が質問を続けようとすると、ユリカちゃんはそれを手で制した。
「あ、待って。アキトが私を呼んでいる」
ユリカちゃんは、言葉と共に、視線を虚空に向ける。
「アキト?」
「うん! ユリカの王子様!」
分からないことは、どんどん増えていく。アキトとは、誰?
私には声も聞こえなければ、その姿も見えないのだけれど……。
眉をひそめる私のことは、すでにユリカちゃんの目には入っていないようだ。
虚空を見上げたまま、ユリカちゃんは必死に「アキト」を呼び続ける。
「アキト、アキト、アキトォ! ねぇ、アキト! アキトはどこに行きたいのぉ!」
『秩父山中』
そのとき、禍々しい男の声が、私にも聞こえた。
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