第十七話
今の声は、なんだろう?
蛇に背筋を舐められるような、ゾッとする声。あの声が、アキト……?
とてもユリカちゃんが嬉しそうに呼びかけるような相手には、思えないんだけど……。
「なるさん、どうかした?」
ユリカちゃんに言葉をかけられ、私は意識を自身から外に向ける。
曖昧に笑いながら、視線をユリカちゃんへと向けると、彼女も笑い返してくれた。
文字通りに微笑ましい光景だろう。ここが、白い世界じゃなければ。
「えっと……ユリカちゃんは、アキトくんの事が、好きなの?」
私の胸中には、アキトなる人物の声に対する不快感が湧いている。
しかし、そこは私も大人。その思いを抑えつつ、軽やかな声で質問する。
「うん。ユリカはいつもアキトと一緒!」
「よかったね」
「うん。ラブラブ。ねぇ、アキト」
そう呟いて、再び虚空を見上げるユリカちゃん。
「アキトはどこに行きたいのぉ!」
『ネルガル重工本社ビル』
「うん、わかった!」
太い男の声に快く承諾して、何か祈りを捧げるよう、両目を閉じるユリカちゃん。
多少の時間を共有することで、私は自身と、そしてユリカちゃんの状態についてある程度理解した。
順を追って、自身の状況を振り返ってみる。
まず、私と景太郎は誘拐され、実験動物とされた。
何の目的で、なぜ私たちがそういうことの対象になったかは、今となっては分からないけど。何はともあれ、なってしまった。
捕まった後は、別々にされたから、景太郎がどういう実験を受けていたかは知らない。
私が受けた実験は、CTスキャンもどきとか、注射もどきとか。
やがて気がつくと、私の体から私の意識は抜け出していた。まさに『いつの間にか』だ。
私は私の身体ではない何処かから、外部の世界を見つめていた。
それはおそらく、遺跡内部から……だったのだろう。
私の身体は硬くなり、サンプルとして置かれていた『遺跡』と、同じようになっていたから。
その推測を裏付けるように、接触がどうとか、反応がどうとか、融合だとか、何だとか……色々と研究者たちも言ってたし。
――――――で、景太郎は、どうにかして逃げ出して、私を助けに来た。
そして遺跡内にいる私には気付くはずもなく、私の抜け殻を回収すると、施設ごと遺跡を破壊した……んだと思う。
閃光に溢れたところまでは、あの遺跡の中で感知してたような気がするから。
そして、今は白い世界。
あの遺跡から、他の遺跡に飛んだとか、それとも本当に天国なのかとか、色々考えられる。
まぁ、多分……私はまだ遺跡の中にいるんだろう。
何だかんだといいつつ、遺跡の中に入ってから、私が感じる世界というか、空気というか、そういう類のものは変わっていないから。
状態としては、前は遺跡の中から外が見えた。でも、今は見えない。
その閉ざされた状態を、私は『白』として認識している、という感じ、かな?
まぁ、なんにしろ、結局全てに確証はないんだけど。
さて、ここで考えるべきは、ミスマルユリカという、この少女。
彼女は、私には見えないものを見ている。
これは以前の私のように、遺跡の外を認識しているんじゃないかな?
ただ、彼女にはその外部を認識するラインが接続されているけれど、
どこからか流れるように歩いてきた私には、接続されていないと言うか……。
でも、声は私にも聞こえるんだから、やりようによっては外を見られるかもしれない。
そしてさらに色々と頑張れば、もしかすると外に出られ――――――いや、それはないか。
身体は景太郎が持って行っちゃったし、私の魂というか、意識の入る器がない。
うーん、どうすればいいんだろう?
外に出たいと願っても、出る手段が不明。仮に出る方法を見つけたとしても、受け皿がない。うぅー……。
「う、ぅぅ……あきとぉ……」
私は物思いにふけっていたが、ふと、小さな泣き声に気付いた。
ユリカちゃんが……泣いている。
「ど、どうしたの?」
「アキトが、いなくなっちゃった」
……それは、外部からのイメージ伝達がなくなったということなのだろうか?
どうしよう? ユリカちゃん、私もなんだか泣きたい気分なのよ?
今後の手がかりになるかもしれない細い糸が、今まさに切れたところだし。
外の世界を見ることの出来ていそうな、ユリカちゃんだけが頼りだったのに。本当に他の人がいないし。
泣き続けユリカちゃんの頭を、私も沈んだ顔のまま撫で続ける。
そんな重く停滞した空気は、虚空から落ちてくる声によって消されることとなった。
『ユリカさん……ユリカさん?』
最初はかすれつつ、そしてやがて明瞭に……声が世界に響いていく。
それは女の子の声だった。
先に聞いた男の声ような、禍々しさのない清涼な声。耳を澄まさずとも、よくなじむ声。
『ユリカさん……?』
私は泣いているユリカちゃんの肩を揺らして、意識を声へと向けさせる。
「ユリカちゃん、誰かが外から呼んでるよ? 知ってる人?」
「……これ、ルリちゃん?」
涙をためつつも、ユリカちゃんはようやく虚空を見上げて呟く。
ルリ。ユリカちゃんの友達だろうか?
「応えなくていいの? 呼ばれてるよ?」
「でも、アキトが……」
「アキト君、ね」
私としては、アキト君という人物がどういう人なのか分からないから、どういえばいいのか分からない。
また、それはルリという人物にしても同様。
暫く、ユリカちゃんは自身の葛藤に意識を向けていた。
こんなに大人しいユリカちゃんを見るのは初めてだ。
ごく短い付き合いでしかないけれど、それでもいつも『アキトアキト』と、ヒマさえあれば呟いているから。
本当に好きなのか……それとも恋に恋してるだけか。
この様子を見る限りは、微妙なところね。五分五分かな? まぁ、子供だし。
「ユリカ、ここでアキトのこと待ってる! だってアキトは私の王子様! ちゃんと迎えに来てくれる! 絶対」
葛藤を終えたらしいユリカちゃんは、立ち上がると胸を張ってそう言う。
泣き止んだかと思うと、もういつもの調子だ。立ち直りはかなり早いらしい。
即決できるという事は素晴らしいと思うけど、もう少し物事は深く考えてもいいかと思う。
「待ってるって……えっと、じゃ、ルリちゃんはどうするの?」
呼びかける相手を無視するのか? と言外に含ませる。
私の言葉に、ユリカちゃんは悩み出す。どうやら、考えてなかったらしい。
「ルリちゃんもほっとけないし……うーん、なるさん代わりに行って」
本当に切り替えが早いというのか、なんと言うのか。
ユリカちゃんは勝手に自己完結して、話を進める。
話し振りからして、やはりルリちゃんとは友達か何かかな?
……代わりに行く、か。
この声にしたがって意識を移動させていけば、遺跡の外に出れるかな?
もしかすると、ユリカちゃんのいた『外』の世界は、結構気楽に遺跡の中に入ったり出たり出来るのかな?
今、考えることに意味はない。
道は、進むしかないだろう。この場合。外に私の受け皿があるのかどうか、分からないけれど。
でも、この世界で、初めて何らかの指針を得ることが出来たのだから、移動するなら、行動するなら、今しかない。多分。
「……じゃ、代わりに行くよ?」
私は最終確認もかねて、聞く。
「うん! お願い」
無邪気というか、何も考えていないというか。かなり軽い調子で頼まれる。
私は頷き、声に従って歩を進めた。
後ろ……便宜上後ろ……を見ると、ユリカちゃんが手を振っていた。私も軽く振り返す。
「アキトに待ってるからって、伝えてね!」
「分かったわ」
気前よく、私は返事をした。
安請け合いかもしれないけれど、暗い顔で返事をしても、仕方がないもんね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今、私は緊張しています。
それこそ、火星の後継者を制圧したその時よりも。
私の目の前には、私の姉がいます。その名前はミスマルユリカ。
結婚式は挙げましたが、諸事情により、入籍手続きを行っていなかったため、いまだミスマルである、私の姉。
私、ホシノルリの、義理の姉。
閉じられていたその瞳が、ゆっくりと開かれました。
ぼんやりと、焦点の合わない瞳はやはり力なく、そのせいで表情にも精彩がありません。
長い間、遺跡と融合していたのですから、仕方がないと言えばそれまでです。
ですが、やっぱり嫌です。元気のないユリカさんは。
旧ナデシコを思い返してみても、ユリカさんは大抵笑顔でした。
ユリカさんも、一応人間ですから、時には落ち込むこともありました。
ですが、やはり基本的には無駄に明るい人だったと思います。私はちょうどその反対だったでしょうが。
艦長……ユリカさんは笑いながら「アキト、アキト」と言って。
それを見て、副操舵士のエリナさんが「いつもアキトアキト言ってないで!」と怒って。
そんなやり取りを見て、私は「ばかばっか」と呟いて。
艦内の士気を高いまま維持する、と言う意味では、ユリカさんはまさにある意味うってつけ。
敵にぼろぼろにやられても、教育番組らしきものを、ノリノリでやってたし。
あれは、やはり「強さ」だったと思う。
……だから、そんなユリカさんの精彩欠く表情は、見たくないです。
「――――――……あっ」
ユリカさんの口がゆっくりと開かれ、声が漏れます。
そして、少しずつ光をともし始めた瞳を、周囲に巡らせました。
周りにいるのは、私を含め、ナデシコクルーほぼ全員。アキトさんは、いませんが。
どんな言葉が紡がれるのでしょうか。
『おはよう』? 『久しぶり』?
それとも『みんな老けたね』とかでしょうか?
「…貴方……誰?」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
一同、沈黙。
これは、予想していませんでした。記憶の混乱か何かでしょうか。
一時的なものならいいのですが……。やはりここにある設備だけでは心もとないですね。
早くナデシコで地球圏に戻って、もう一度イネスさんに精密検査を実施してもらいましょう。
「……ここは、どこ?」
「火星だよ、ユリカ」
誰、と言われたことにショックを受けつつも、一番早く答えたのはアオイさん。
私は考え事をしてましたから、ちょっと反応が遅くなりました。
「火星……? ユートピア、コロニー?」
ユートピアコロニーの名前が出るということは、記憶喪失でなく、やはり記憶の混乱のようですね。
「ここは、遺跡ですよ。火星の後継者たちの本拠地となってました」
「……遺……じゃあ、ここは外?」
ユリカさんは、よく分からないことを呟いてますが……外? 何のことでしょうか?
遺跡と融合していたときのユリカさんは、夢を見ている状態にさせられたそうです。
よって理論上は、遺跡内部とその周囲、つまりは外部の区別は出来ないはずなんですけど。
「ユリカさん、大丈夫ですか?」
私は、ユリカさんの頬に触れながら、ゆっくりと言った。
「……あっ……この声……ルリ…ちゃん?」
「もしかして、目が見えてないのですか?」
あの人のように、感覚が鈍くなっているのでしょうか?
「見えてる。でも、声しか知らなかったから」
「声?」
「ユリカちゃんに、呼びかけていたでしょ、貴方。でも、ユリカちゃんは……アキト君を待つって」
「――――――はい?」
「あの子は、遺跡の中にまだいるの。だから、私は貴方の……呼びかける声を頼りに、代わりに出てきたの」
「なにを……何を言っているのですか? ユリカさん? ユリカさんじゃないんですか?」
「私の名前はなる。はじめまして、ルリちゃん」
えっと、これはどういうことでしょう?
えーっと、えっと、えっと?
「……はじめまして」
とりあえず、私はそう言った。
『はじめまして』
続けて、なぜかみんなも挨拶した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ミスマルのおじ様が用意してくださった病室は、相応の広さがあった。
私はその部屋の中、椅子に腰掛けて、ベッドに横たわる彼女と話を続けている。
「で、東大受験して気が付くと、なぜか南の島で遭難したわけ」
「……はぁ」
どういう経緯でそうなるのか。もうちょっと詳しく聞きたいですね。
「受験の結果見るのが怖くて、景太郎が逃げちゃって。追っかけて行って……」
ベッドの中にいるのは、ミスマルユリカ……じゃなくて、成瀬川なる。
浦島景太郎との結婚により、浦島なるとなる。24歳(?)の日本人女性。
1981年3月25日生まれ。東京都出身。おひつじ座のA型。
それが今、ユリカさんの身体の中にいる人物のパーソナルデータ。
身体も脳もユリカさんのものなのに、意識だけが別の人だなんて、信じられない話です。
まぁ、このことについての、イネスさんの推測を含む説明をかいつまむと――――――
『パーソナルパターンが『ミスマルユリカ』と違っていた以上、この『体』が今持つ『魂』や『心』は前のユリカさんと違うということだけは確か』だそうです。
このことに関しての詳しい調査は、引き続きイネスさんが指揮を執り、調査してくれてます。
……イネスさん、本当の専攻が何の学者なんでしょうか。今さらながらに疑問だったりします。
まぁ、なんにせよ、今は推測の域を出ていないので、説明が多少短くなってくれてよかったです。
なまじ事実が分かり出すと、余計に長くなりますし。
火星クーデターの事後処理・軍部との折衝・ナデシコ自体の管理運営・その他諸々。
私のやるべきことはかなり多いのです。
ハーリー君は『頑張って』と言えば頑張ってくれるでしょうけど、まだまだ実力は発展途上ですから、常時ナデシコを任せるわけにもいきません。
だから、正直なところ、イネスさんの説明に何時間も予定を割きたくはないんです。
……こんなこと言うと、イネスさんがすねちゃいますけど。
――――――で、改めて状況を説明すると、そんな忙しい私は今、お見舞い中なのです。
ユリカさんというか、正確には『ユリカさんの中に入ったなるさん』のお見舞いです。
ちなみに清潔感というより、圧迫感を感じる白い病室。ここでの行動は全て監視されている。
意識がユリカさんであろうとなかろうと、その存在自体が今は危険視されている。
何しろその身体は、現存する唯一確保可能なA級ジャンパーのモノ。
中身がどうであろうと、その事実は変わらないということです。
なるさんも落ち着けないでしょうけれど、これは我慢してもらうしかありません。
「大変だったんですね」
余計なことを考えていたせいか、すこし、適当な返事だったかもしれない。
えっと、何でしたっけ? あぁ、受験に失敗して、何故か遭難したんですよね?
言っておいてなんですが、大変の二文字で済む話ではないですよね、これ。
私はそれまで考えていた思考を凍結させ、なるさんとの会話に集中する。
話をしていると、確かに別人なんだと思います。まず、取り巻く雰囲気がユリカさんとかなり違いますし。
話の内容も……何と言うか、作り話としか思えない箇所も何箇所かありますが、納得が出来ないほどじゃありません。一応は。
それに、話を聞きながら、私は手元の端末で過去のデータをチェックしています。
浦島景太郎と、成瀬川なる。
確かに21世紀初頭に、婚姻届が日本国に提出されており、公式書類として今もデジタルベースに保存されています。
公的文書管理の電子化が始まっている年代の人で、助かります。これがあと50年前の人だったら、婚姻届けなどの資料を探すことも一苦労です。
とにかく、浦島なるという人物が、過去に存在した人物であることの確認は取れました。
これにより、少なくともユリカさんの記憶混乱による自己喪失と再構築……
つまり、自分が誰かなのかが分らなくなり、適当に自分の経歴を作り出した……という可能性は、完全に否定されました。
「なぜ、結婚なされたんですか?」
話に出てくる夫・景太郎さんはずいぶんと情けない人のようです。
話し方に感情がこもっている以上、余計にその印象が濃くなります。
「やっぱりスキだったから、かなぁ」
のろけられました。柔らかい微笑を浮かべるなるさん。
ユリカさんがこういう顔で笑ったことは、あまりありません。
こういう落ち着いた愛情を示せる大人な女性。私の知り合いで思いつくのは、ミナトさんかな。
「不死身だし、いざって言うときは、本当に体を張って私を守ってくれたしね」
「そうですか」
「あの時も、あいつの手下をほとんど足腰立たないようにしてたし。結局捕まったけど」
「あのとき、ですか?」
「私たちが誘拐されたとき。私は誘拐されて、実験されて、遺跡に取り込まれたの」
「そこ、詳しく聞かせてもらえませんか?」
「いいよ。最初から、そこが聞きたかったんでしょう?」
頭がいい人ですから、こちらの真意はとうにお見通しですね。
経歴上、当時の最高学府に在籍していらっしゃったようですし。
技術的な進歩はありますが、人格面で人類はさほど成長したわけではありません。
相応のカリキュラムを受ければ、なるさんならすぐにこの時代にも適応出来そうです。
「すみません。話したくない内容だとは思うのですが」
「ううん。別にいいよ」
ふるふると首を振って、なるさんは言葉を紡いでいく。
話された内容は――――――やはり面白いものではありませんでした。
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