第三十七話



突然現れ、横島クンの前世である高島を殺した『誰か』を前に、私たちは指一つ動かせなかった。


私はGSだ。

未知の人外のものを相手にし、それに打ち勝つことを仕事としている者だ。

そのGSの中でもトップクラスの実力を持ち、神族の小竜姫からも頼りにされているほど人間だ。


でも、動けなかった。背筋に鉄骨を仕込まれたかのように、身動きが出来なかった。

そのくらい強烈な威圧感のようなものが、頭上の者からは感じられた。


あと…………よく分からない、胸を突くような、もっと他の感情も……。


何故だろうか? 

何故私は今、こんなにも心をかき乱されているんだろう?

計り知れない相手の力のせいで、怯えていることははっきりしている。

そして、怯えとは違うもっと他の何かに心を揺り動かされているのも、確かだ。

では、一体その心を動かす『何か』とは何なの?

そう考えたところで、答えは見つかりそうにない。

そもそも、冷静に考えられるほどの余裕なんて、ない。


「私に追いつけたのは、そういう事か。メフィストめ……余計なことを!」


指一つ動かせなかった私たち。

その中でいち早くその状態を脱出したのは、メドーサだった。

彼女はメフィストを睨みつけると、そう言葉を吐き捨てる。


「くっ! 美神! おい、しっかりしろ!」


怒気を含むそのままの勢いで、メドーサは金縛りにあっている私の肩を掴んだ。

それにより、私はようやく視線を頭上の得体の知れない存在から離すことが出来た。


「メ、メドーサ」

「ボケっとしてんじゃないよ!」


ようやく自分の方向を見た私に対し、メドーサは苛立ち混じりに、言う。


「集中しろ! 行くぞ!」

「え?」

「聞き返すな! 現代に逃げるんだ!」

「で、でも」


私は頭のなくなった陰陽師・高島を見る。

そしてその近くで呆然としている、私の前世も見つめる。

確かに時間移動をすれば、まずあの存在は私たちを追っては来れないと思う。

不気味なくらいの威圧感がある存在だけれど、

時間移動の能力なんて、早々持っているはずがないもの。

しかし、私たちがこの場から逃げれば、メフィストが一人であの存在の相手をすることになる…………。


「馬鹿かお前は!?」


メフィストを見て逡巡した私に、メドーサは怒鳴った。


「今は現代じゃない! 目の前の出来事は1000年も前のことだ! それを分かれ!」

「あっ……」


メドーサの言うことも、もっともと言えばもっともだった。

仮にこの場でメフィストがどうなろうと、

私たちが現代にさえ帰ってしまえば、何が起こっても問題はない。

そういった歴史の流れがあった……と言うだけのこと。

今ここで私がメフィストを守り通す必要なんて、ない。

それに……あの存在を相手に、守れるはずもない。

ここで私がうだうだと躊躇して、そのせいで逃げることも出来ないまま死んだら、それこそ正真正銘の馬鹿だ。

考えてみれば当然の…………分かりきったこと。

ただ、自分に親しい人間である横島クンの前世が目の前で死んで、

さらにその死体に自分そっくりのメフィストがしがみ付いていたから、そう割り切れなかった。


でも、割り切らなければならない。今だけは。


頭上にいる存在は桁外れで、この時代のGSと言える陰陽師を瞬殺した。

そして『まずそいつから消した』などと言っていたのだから、私たちも標的になっている可能性が高い。

精神を集中させ……逃げなければならない。


「分かったわ。……冥子!」


私はメドーサの言葉を受けて、頭を切り替える。

そして冥子に声をかけると、冥子は力強く頷いて、出現させているサンチラに声をかけた。

時間を移動すると言う能力の行使は、いまだ慣れているわけじゃない。

何となく、出来ていると言うだけだ。

だから色んな意味で精神集中が必要なんだけれど……今はそんな余裕がない。

とにかく、現代をイメージし、さらにここから離れることを強く願わないと……。


雷撃は他に任せて、私は目を閉じ、視覚からの情報を遮断して集中する。

そんな私に呼応するように、周囲の空気がバチバチと鳴った。

メドーサたちが雷撃の用意をしてくれたのだろう。


「時間移動か。面白い特技だな。そうか……ふむ。だが、させんよ」


私が何をしようとしているのか。

普通なら見ていても分かるはずがないのに、あの存在は分かったらしい。

納得するようにあの頭上の者が言葉をつむぐと、同時に後頭部を鈍器で殴られるような、そんな衝撃が走った。

驚きとともに目を開いてみれば、目の前にあったものは迫り来る地面。

私はとっさに手を突き出して、顔から地面に崩れ落ちることだけは防いだ。


(な、何なのよ、この圧力は!?)


そんな無様な私を笑いながら、ヤツ……どうやら声からして、一応は男らしい……は、地に降り立った。


「メフィストの気が二つに増えたことは、そう言う事か。

 何故かは知らんが、メフィストの来世が時間移動能力により、この時代に来ていたということか」


男はマントを翻させつつ、こちらへと……私の元へと近づいてくる。

すぐに逃げないといけない。そうGSとしての危険信号が告げている。

しかし同時に、本能のようなものが私の体を萎縮させ、立ち上がって距離を取ることを困難にしていた。


「今殺した陰陽師の来世も、そこにいるのか……。なかなか面白い運命だな」


ゆっくりと、だが確実に男は距離を縮めてくる。

後、5歩、4歩、3歩…………もう、目の前……。


「私にここでメフィストと男は殺された。そしてその魂は流転し、いつの時代かに生まれ変わった。

 そしてその時代で再会を果たし…………わざわざ自分たちが以前殺された時代に遡ってきて、再度私に殺される」


何故、メフィストはこの男に狙われているんだろう?

何故、私はこの男に殺されそうになっているんだろう?

もし本当にこのままメフィストがこいつに殺されて、そのあと私に生まれ変わって、

さらに今ここで私が殺されるなら……もしそんなのが運命なら…………そんな運命なんてクソ喰らえだわ!


「ちぃっ!」


私はGS。私は美神令子。

胸中でそう繰り返し、私は自身を奮い立たせる。

そして腰に装備している神通棍を、男に向かって振り落とした。


「ふむ? 何かしたか?」


しかし、神通棍は男に当たるなり、その部分から粉々に砕け散った。

まるで、劣化しきったかように、はかなく……それが当然であるかのように。

これで、私は現状における最大の攻撃手段を失ってしまった。


「抵抗はもう終わりかね?」


男はマントの下からするりと腕を出し、そしてそれを振り上げる。

武器を持っているわけでもなく、ただ腕を自身の頭上に上げただけに過ぎない。



でも、私は死ぬ。



そう思えた。

反射的に折れた神通棍で防御しようとはしたけれど、それは何の役にも立たないだろうと思った。





















            第三十七話      一発逆転の手を探せ




















「大丈夫〜〜? レーコちゃん〜〜?」

「め、冥子……?」


ふと気がつくと、私は冥子に肩を抱かれていた。

何故? と疑問が湧き上がる。

私は今ついさっきまであの男の前にいたはずなのに、

何故脈絡もなく、冥子の元に座り込んでいるんだろう?

突然のことに呆然としてしまったけれど、少し考えてみれば簡単なことだった。

どうやら冥子がメキラの瞬間移動能力で、あの男の攻撃から救ってくれたらしい。


「冥子。今ほど私はアンタが頼りになるって思ったことはないわ。ありがと」

「そう〜〜? ありがと〜〜」


冥子は私の言葉に、のんびりとした返事を返してくる。

でも、その視線はあの男からは外されていない。

一応、冥子なりに警戒態勢であるようだ。


(冥子がしっかりと警戒態勢してなかったら、私は殺されてたのね……)


私はどくどくと鳴る自身の心音を自覚しつつ、ホッと息を吐く。

私は今、冗談抜きで…………本気で死を覚悟したから……。

GSとして色々な危機を体験してきたけれど……今みたいなのは………初めてで。


「……って、ボケっとしてられないわ」


状況は何も変わっていない。

私は笑っている膝を叩いて、立ち上がる。

座っていては、本当に何も出来なくなってしまうから。


「時間移動能力者に、瞬間移動能力者か……。色々といるものだな」


男は振り下ろした腕を見つめながら、言う。

しかし、その言葉に焦りは全く含まれていなかった。

瞬間移動能力程度では、ヤツの余裕は崩れないらしい。


どうすればいいのだろう? 


ここは、冥子のインダラに乗って、距離を十分に取って現代に帰るしかないのかしら?

でも、瞬間移動にすら大して驚かないヤツから、十分な距離なんて取れる?


「く……! このぉ!」


私がどうやって逃げようか考えていると、メフィストがそう叫んで男に攻撃を加える。

腕を前に突き出し、その中から凄まじい霊波を放出した。

それは本当にすごい攻撃だった。

小竜姫やメドーサと同じ……いえ、それ以上のクラスの出力だわ。


「無駄だ」

「なっ!?」


しかし、私には驚愕に値するメフィストの攻撃も、男には全く通用しなかった。

男はその攻撃を正面から食らい……そして何事もなかったかのように立っている。

ヤツにとってはうちわで多少強く風を送られた程度でしかないようで、マントが少し揺れただけだった。


「お前が盗んだエネルギーの結晶は、私の魔体のためだけに精製していたものだ。

 私以外の存在では、僅かに含まれる不純物しか使用することが出来ない。

 …………それがどういうことか、分かるか?」


「くっ! 知らないわよ!」


「ならば、愚かな娘でも分かるように教えてやろう。

 僅か1パーセント未満の割合しかない不純物で、貴様はそれなりの力を得た。

 では、そのエネルギーを完全使用出来る私は、どれほどの存在になると思う?

 そして、それだけのことが出来るエネルギーをお前が所有すると言うことが、

 どれだけ無駄なことか……分からんか?

 力とは、すでに強力な力を持つものにこそ、より重要な意味を持つのだ」


「話が……長いのよ!」

「では簡潔に言おう。今すぐエネルギー結晶を返したまえ」


男は攻撃を続けるメフィストに、すたすたと近寄っていく。

メフィストは焦りながら、なおも攻撃の出力を上げるが……やはり男の進む速度は変化しない。


「かはっ!?」


メフィストの元に到着した男は、メフィストの首を掴んで持ち上げた。

抵抗を続けるメフィストは、脚を振り回して男を蹴る。


「何もかもが、無駄だ。さっさと返してもらおうか」

「い……イヤ…よっ!」

「創造主である私に対して、随分な物言いだな」

「アンタは……私を廃棄、しろって、言ったんでしょ!? なら、別に主なんかじゃ……ない!」

「なるほど。筋は通っている。だが、だからと言って貴様の意思が貫かれると思うな」

「うぁ……んっ…ぁっ」


ギリギリとメフィストの首を締め上げていく男。

彼は意識を失いかけるメフィストから視線を放すと、私たちを睨みつけた。


「メフィストがすめば、次は貴様たちだ。逃げ切れると思うな」


私たちは何も関係ない。

アンタが欲しい物は、そのメフィストが盗んだらしいエネルギーとかであって、

メフィストからその欲しいものを取り返したなら、私たちは見逃してくれても、いいんじゃないの?

そう思うが…………本人が言ったように、

筋が通っているからと言って、こちらの意見を通してくれるはずがない。


「冥子……。何か弱点は見えない?」


あの男がメフィストの気を取られている今この時が、作戦を立てる最後の時間だ。

だから私は男を見据えたまま、冥子に小声でそう尋ねる。


「なんだかよく見えないわ〜〜」


冥子はクビラを出現させて男を見つめるけれど……首を横に振るだけだった。


「あっさり弱点が分かるはずもないか」

「あの、美神さん」

「何、横島クン?」


これまで沈黙を続けていた横島クンが、私に話しかけてきた。

殺されかけた私以上に顔が青いのは、それこそ前世が目の前で殺されたからだろうか。


「この時代でも、小竜姫ちゃんならいるんじゃないすかね? 冥子ちゃんの瞬間移動で、呼びに……」

「無駄だね」

「随分とはっきり言うわね、メドーサ」

「当然だ。小竜姫は私より弱い」


外部に助けを頼むと言う、そんな横島クンの案を一蹴したのは、メドーサだった。

横島クンの『小竜姫を呼ぶ』と言う案には、

私も少し希望を持っただけに、ついメドーサには厳しい視線を向けてしまう。

……そもそも、メドーサって小竜姫にGS試験の時に負けてなかったっけ?

メドーサって小竜姫より、本当に強いのかしら?


「小竜姫が10人来ても、無駄だ」


……しかし、確かにメドーサの言う通りかも知れない。

小竜姫でも剣を折られて、すぐやられてしまいそうな気がする。

私が神通棍が折れたせいもあるんだろうけど、なんと言うか想像してみると、負けるイメージしか湧いてこない。

仮に小竜姫がメドーサより強いとしても、あの男より強いとはやはり思えないし。


「くっ。どうすればいいの……」


メフィストはすでに意識を失っており、男は力の抜けたメフィストの体を地面に放り投げる。

そして横たわったメフィストの身体の上に手をかざして、何かを……恐らくエネルギーの結晶とやらを探し始める。

メフィストが身体のプロテクターのどこかか、あるいは身体の中に隠したらしいその結晶が見つかれば、次は私たちが標的になる。


無駄話をしている時間はない。


しかし、具体的な現状の打開案が見つからない。

いや…………打開するだけなら、唯一つのことを可能にするだけでいいのよね。

別にあの男を圧倒して倒す必要なんて、ないのだから。

私たちは現代にさえ帰ることが出来れば、安全なのだから。

でも、時間移動をするためには相応の精神集中が必要で、それがあの男の前では不可能なのだ。


「メドーサ、石化しちゃえない? ほんの少しだけの時間でいいから……」

「無理だね。レベル差があり過ぎる。全力で石化封印を仕掛けても、10秒もつかどうかだ」


メドーサの答えは、頼りないそんなものだった。

まぁ、メフィストのあの攻撃が全く通用していない時点で、

メドーサの力にも大して期待なんてしていなかったけれど。


…………10秒。10秒ね。


メドーサや冥子が雷撃を放つには十分な時間だけれど、私が落ち着くには足りなすぎる。

しかもその10秒と言うのは、絶対に10秒間は大丈夫だというわけではない。

もしかすると1秒ももたないのかもしれない。

そうであった場合は…………想像するだけ無駄ね。殺されるだけだわ。


「相手が状態異常でも起こせば、あるいは数分程度の時間が稼げるかも知れないが」

「状態異常……」

「それこそ、相手を時空消滅させる効果のある魔法薬とかね」


そんなものを今持っているはずがない。

でも、じゃあ、どうすればいい?

相手は下級魔族を生み出せる、高位魔族。

ならば、浄化効能のある聖属性の結界を張れば、多少は弱まらせることが出来る可能性はある?

でも、それだけの結界を張るアイテムも時間もない。

私はいくつかの精霊石を持っているけど、これですらメドーサクラスの魔族相手に、足止めにしかならないし。


「万事……休すなの?」


諦めると言うことはしたくない。ないけれど…………。


「えーっと、美神さん。俺に一つ案があるんすけど」


私が地面に視線を落としかけた丁度その時、横島クンがそう言ってきた。

その顔はあの男にビビリまくっていて……でも、どこかイタズラ小僧のような……。

何かをしてやろうと言う、そんな雰囲気が漂う表情をしていた。


「死ぬ前に一発やらせろとか言ったら、私がぶっ殺すわよ?」


だから私も、強気な表情を作り直して、そう言った。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




メフィストは私から逃げるためだけに、エネルギー結晶を盗んだのだろうか?

メフィストの身体の中からエネルギー結晶を探しつつ、私はそう自問する。

逃げ切るつもりであれば、一箇所に留まって、

あのように言い合いなどするはずがないと思うのだが……。


私のそばにいる人間中の一人は、時間移動能力を持つメフィストの来世らしい。

こいつとメフィストの間には、私の知らないところで何らかのやり取りがあったのか?

やつらは今、メフィストを助けるでもなく、なにやら逃げる算段を立てようとしている。

それはつまり、やつらにとってメフィストがそれほど重要な存在ではないと言う証拠だろう。

ならば、ただメフィストがやつらに執着したのだろうか?



まぁ、いい。



ややこしい事にはなっているようだが、

メフィストから結晶を取り返し、そしてやつらの命を止めれば、全てのかたがつく。


「……見つけた。だが、これは」


メフィストはエネルギー結晶をただ所持して使用していたのではなく、しっかりと飲み込んでいるらしい。

メフィストが不純物を取り込み、自身の力としようとしたためか、結晶あメフィストの内部で同化を始めていた。

もちろん私の魔体専用に調整されたエネルギーであるため、不純物以外の部分は、完全に独立を保っている。

決して脆弱ではないが、しかし素材が魂であるだけに、万が一と言うこともある。

私はメフィストの腹部に、両の手を突き入れていく。

ゆっくりと、静かに、揺らさずに……。



「……慎重に切り離す必要があるな」

「おい!」



私が作業を始めたその時…………少年の声が、響いた。

手を止めて声がした方向を見やってみれば、そこにはあの陰陽師の来世である少年が立っていた。

その後ろにはメフィストの来世と、その関係者であるらしい瞬間移動能力者と、そして…………


「? 一人足りないな?」


もう1人、魔族の女がいたはずだ。

人物の影になっているのかと視線をずらしてみるが、いない。

もしかして、あの魔族の女のみが、逃げたのだろうか? 

この少年たちは、あの魔族の逃げる時間を稼いだのか?

そう言えば、あの魔族の女のことはあまり気にしていなかったが……あれは何者だろうか?

幾つかの疑問が湧き出てくる。

だが、私はそれについて、改めて思考を展開することが出来なかった。

何故なら…………



「これでも! 食らえぇっ!」

「っ!?」



ふと気がついた瞬間、私の眼前に件の少年の姿が迫っていたのだ。

少年は魔族の女に抱きかかえられた格好で突然目の前に現れ、そして私に何かを投げつけてくる。

情けないことだが、私はその少年の行動に、全く対応が出来なかった。

この私の名誉のために言っておくのならば、

眼前に思いがけず瞬間的に発現されたことだけが、原因ではない。

主な原因は、私の両の手は、メフィストの中にあったからだ。

そう。結晶については慎重に作業すべき状態であり、いきなり手を引き抜いて戦闘の構えを取ることは出来なかったのだ。

…………まぁ、こちらが動き辛いタイミングであると考えて行動を起こしたのならば、

私は少年に対して、それ相応の賛辞を送らなければならないのかもしれない。


「くっ!?」


私の顔に、少年の投げつけた何かがぶつかり、割れる。

それはどうやらガラス製のビンであるらしく、中からは何らかの液体が零れ出した。

強酸性水か、あるいは劇薬か……と思ったが、液体は私の顔を伝うだけだった。

目元を手で拭い、唇の上を伝うその液体を、舌で舐めてみる。

刺激も味もない、ただの水のように思えた。

まさか本当にただの水をかけてくることはないだろう。間違いなく、何らかの効能はあるはずだ。

しかし、瞬間的に何かが起こるわけではないらしい。

ならば、具体的な影響が出る前に結晶を取り出し、

その後、この場の者を全て殺し…………ゆっくりと効能をキャンセルする対策を考えればよい。


(今即座に効果が現れなければ、無駄でしかないぞ!)


私は視界をぼやけさせるその液体に腹を立てつつ、眼前の少年に手を振り上げる。

すると少年と彼を抱きかかえていた魔族の女は、ぐにゃりと残像を残してその場から加速する。


「超加速か! ええい、こしゃくな真似を!」


超加速は使用者……あるいはその影響化にある者の、移動する時間の流れ自体が変化する術だ。

単なる瞬発力による加速ではないため、気配なども非常に読みづらくなる。

私が少年の出現に遅れを取ったのも、そのせいだな。


「どこだっ!」


私は感覚を鋭敏化させながら、周囲を見回す。

すると彼らは私から距離を取り、他の人間どもが立つ所まで移動していた。

それと同時に、先ほど私が見た『私に声をかけたはずの少年』が液体化し、別の何かへと変化した。

動く水銀とでも表現すればいいのか。

実に無機質な人形となったそれは、瞬間移動能力者の影へと隠れていく。




……謀られた。




その時、私は素直にそう思った。

私はある一人の人間のことを瞬間移動能力者だと、そう考えていた。

しかし、まずその前提自体が違っていたのだ。

気づくべきだった。

私が瞬間移動能力のみを持つと考えた人間は、多種の能力を持つ式神使いだったのだ。

恐らくは、私が見せられていないだけで、まだまだ他の能力があると考えた方がいいだろう。


今の場合、式神使いが少年の姿をした囮を作り出す。

そしてその囮の後ろから声を発した瞬間に、少年は魔族の手により超加速し、私の死角へと入り込んだ……と言うことだろう。

だが、何故少年である必要があったのか?

してやられたと悔しく思うと同時に、私は相手がどのような策を他に弄したのか、少々楽しみでもあった。


「行くよ、横島」

「ういっ! 起きろよ、コーラル!」


答えはすぐに分からされることになった。

魔族の女と少年は、戸惑う私に鋭い視線をぶつけてくる。

すると視線を浴びた部分から、私の体を覆うマントが石へと変って行く……。

石仏はどうか知らないが、道真を石化封印したのはあの魔族の女が関与しているのかも知れない。


「……くっ。やはり、なかなか固まらんか」

「や、やっぱあの薬は効かなかったかな?」


やはり今しがた私が浴びた液体は、何らかの効能を持つ薬だったらしい。

もしかすると、聖水か……あるいは神聖系統の捕縛結界水だったのかもしれない。

どちらにしろ、高位魔族である私からすれば、聖水をかけられたところで、大した影響などない。

私は魔を除けるために結成された聖歌唱団の聖なる鎮魂歌も、ただの音楽として心地よく鑑賞することが出来る。


「このままじゃ……」

「くそっ……」


薬が効いて私が弱まっていれば、完全に石化封印をすることが出来たのに……とでも、今の彼らは考えていることだろう。

しかし、残念ながらその目論見はうまく行かなかったようだな。

私は立ち上がり、こちらを睨みつけてくる二人の元へと歩いていく。

メフィストの作業は、一時中断だ。


何しろ、彼らはこの私を驚かせたのだ。

彼らには敬意を払い、全力で相手をしなければならないだろう。

そう……生き延びるために、諦めることなく足掻く。

たとえ相手が圧倒的存在であっても、必死に抵抗し続ける。それが生きるものの定めだ。

そして彼らは、十分に抵抗した。

ここは痛みにすら気づかぬ、耐え切れるはずのない攻撃で葬り去ってやろう。


私は少年に向かって、言う。


「君たちはもともと私と戦う気はなかったようだね。

 しかし、状況の変化により、このようなことになってしまった。

 その急な土壇場で、この私を驚かせる一手を打った。そのことには…………」


賛辞を送らせて貰う。

そう、私は言いたかった。

しかし、私は言葉途中で、固まった。






「!? ぉ!? おおぉっ!?」






何故なら…………原因は全く分からないのだが、盛大に鼻血が噴出したのだ。

ああ。有り得ないほど、出た。

間歇泉のように、出たよ。

あえて擬音にするならば『ぶしゅぅぅぅううっ!!』とでも言う感じか。

正直、長く生きてきたが、このような経験は初めてのことだった。




「よし! 効いた!」

「…………なっ」



鼻の頭を手で押さえるが、鼻の穴の全ての血管が切れたかのような勢いで流れ出る血液は、止まる気配がなかった。

もしも指を鼻の穴に突き入れたならば、逆流して口から大量に血が流れ出そうだった。

そんな私に対し、歓喜の声を上げる少年と、呆れ帰る魔族の女。

彼らより少しばかり後ろに控えているメフィストの来世と式神使いも、かなり驚いている。


まぁ、驚いて当然だ。

私も正直なところ、天地がひっくり返るほどに内心驚いている。

繰り返すことになるが、鼻血を噴き出させられたことなど、初めての体験だ。



「少年……君は、一体、何を?」

「効くかどうか半信半疑の賭けだったけど、結果オーライっすね!」


私は少年に向けて問いかけるが、彼は見事に私の問いを無視し、魔族の女に笑いかけた。

すると魔族の女は、私に気を配ってくれたわけではないだろうが……額に汗を浮かべつつ、少年に問いかける。


「横島……結局、あの魔法薬は何だったんだい?」

「厄珍に最強と言わしめた、超強力の媚薬っす!」

「び、媚薬?」

「なんでも、わずか1滴ですぐさま身体を火照らせ、下手すると身を滅ぼすとか」


そうか、媚薬か。

この私が、顔面から媚薬をかけられたわけか……この私が。

確かに、非常に体が熱い。鼻から出て行く血も、熱湯のようだ。

下手な火炎攻撃や呪縛よりも、私の体に変調を及ぼしているよ。

思考すらあやふやになりかけていく気すら、する。


横島か。


少年よ、君の名前は覚えたぞ。忘れん。絶対に忘れんぞ。

どくどくと駆け巡っていく血潮に戸惑いつつ、

私は少年…………横島に向かって、歩を進める。


「何にしろ、相手の調子が狂ったことは確かだ! いくよ、横島!」

「ういっ! カチカチの石に固めてやります!」


ふらつく足を何とか制御して進む私だったが、次第に前へと進まなくなった。

身体の末端である手足の先の表層から、どんどんと石に変化していったからだ。

通常状態では、まず有り得ない。

この私の体は、この程度の石化攻撃など、簡単にレジストするはずなのだ。

しかし今まで経験したことのない変調をきたした私の体は、うまく石化攻撃を防ぐことが出来なかった。


この、この私が……鼻血を噴出した挙句に、石にされて封印されるだと?

全くもって、許容できない。

生きる定めを他者から決め付けられ、ずっとそれに従わなければならないことと同じくらい、許容できない。

この私は誰だ? 時期魔王を目指すアシュタロスだぞ?

これは先ほど目の前の彼らに向けた言葉だが『必死に抵抗し続ける。それが生きるものの定め』だ。

私も全力をもって、石化に抵抗しようではないか。

このままでは終わらさん。このままでは済まさんぞ、横島!









結論から言おう。

私は石にされた。

許容できない事実だが、しかし事実だ。

私は石にされてしまった。



……………………。



陰陽師・高島は簡単に殺すことが出来たが、その来世には敗北したと言ってもいいだろう。


『人間の中には、一発逆転の輝きがある存在がいるもの』か。


あの妖狐の男を見る目は、正しかったのかも知れないな。

彼女が目を付けた男の来世であるとは言え、

私は絶対的な優位であるにもかかわらず、一発逆転の手を打たれたのだから。



………………………この屈辱、絶対に忘れんぞ。



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