第二話
青い空を灰色の雲が覆い隠していました。
太陽の光はまともには見えず、まだ夕闇が迫るには早い時間帯であるというのに、世界はとても薄暗くなっていました。
やがて雨がぽつりぽつりと降り始めて、大地を濡らしていきました。
そんな不機嫌な空の様子を、大きな木下から一人の少女が見つめていました。
黒く艶ののある髪を、振分髪で整えた少女で、くたびれた布の着物を着ていました。
「ったく。いつまで降るつもりかしら?」
少女は誰に言うでもなく、そう呟きます。
大きな木は彼女を雨から守っていますが、しかし寒さまでは防いでくれません。
薄い布しかまとっていない彼女は、くしゅんとくしゃみをしました。
「……待っててあげてるのに、全然来る気配もないし。何をしているのかしら?」
少女は憤りを声に含ませながら、視線を左右に振ります。
少女が雨宿りをしている木は、細い細い街道の横に立っています。
だから彼女が視線を左右に降れば、自身が今しがた通って来た道と、これから進む道の両方を見ることが出来ました。
彼女がこれから行く道は、ずっと続いています。そして、その向こう側から人が歩いてくる気配はありません。
彼女がこれまで来た道も、ずっと続いています。そしてまた、その向こう側からは誰一人歩いてくる気配はありません。
彼女は一人、雨を見つめました。
「雨がやんだら、出発しよ。もうすぐ、村があるはずなんだし」
一つの決意を、少女は自身に聞こえるくらいの声で口に出しました。
彼女は、どのくらいここで人を待っていたのでしょうか?
彼女は、一体誰を待っているのでしょうか?
それは彼女が口を開いてくれないので、分かりませんでした。
やがて、雨は止みました。
空を覆っていた雲の切れ間から、太陽の光が線となって大地に注がれていきました。
その線はやがて太く、そして広くなっていきました。
少女は自身の言葉どおりに『もう歩いていこう』と思いました。
そして一歩だけ足を前へと出すと、彼女の頭には木の葉から水滴が落ちました。
その冷たさに少しだけ驚いて、彼女は早足で木の下から進んでいきます。
雨でぬかるんでいるため、足音がべちゃべちゃと鳴りました。
彼女の後を追うものは、誰もいませんでした。
彼女は一人で、道を進んでいきました。
第二話 仕方のない村で……
少女はてくてくと、道を歩き進みました。
すると、やがて村が見えてきました。
それなりの大きさで、村の中の家々の前には穀物が撒いてありました。
それはこの時代に置いて、魔除けの意味を持つ風習の一つでした。
「豊かな村ね。こんな村もあるんだ……」
少女は感嘆して、呟きます。
彼女の言葉どおり、この村は豊かな村でした。
貴重な食料である穀物を、風習として地面に撒くことが出来る。
それはつまり、飢えに苦しんでおらず、喰うに困らないだけの収穫量があること示していました。
少女は何食わぬ顔で……まるでずっとこの村で暮らしてきたかのように、村の中を徘徊します。
すると、豊かであるはずの村にしては、活気が無いことに気づきました。
このくらい豊かな村であれば、もっと人々が往来で笑い合っていてもいいようなものです。
少女が首をかしげながら歩いていくと、大きな人だかりを見つけることが出来ました。
その人だかりは、こんな都から遠く離れた片田舎には相応しくない、割と立派なお屋敷の前に起こっていました。
「どうかしたの?」
「どうかしたのって、おめぇ! ああ、いや、子供に言う手も分からんが……」
少女は目に付いた男に、声をかけました。
男は泣いていました。
いえ、その屋敷の前に集まっている他の人々も、一様に悲しみから涙を流しているようでした。
泣いていなかったり、悲しんでいないものがいるとすれば、
それは大人たちに連れられてここに来たらしい、少女と同じか、それより小さな子供たちくらいなものでした。
「本当はな、今日はな……大事な大事なお子が生まれる日だったんだぞ」
「もし生まれていれば、当然、お前らより年下になるわけだ。お前ら皆、一気にお兄ちゃん、お姉ちゃんだったんだ」
「そう。大事に、皆で……面倒を……見てやらにゃ、いかんはずだったんだよ?」
大人たちはきょとんとする子供たちに、次々に説明しました。
今日はこの村で一番偉い人の子供が生まれる日でした。
そして偉い人は本当に偉い人で、村中から信頼されていました。
皆が、村中が、この偉い人のことを心から好いていました。
その人に子供が生まれるのだから、本当にめでたいことだったです。
村人の中には、過去に来た旅人から渡された直刃の刀を用意したり、
聞きかじった知識を元に、弓を鳴らす魔除け行為……鳴弦を行ったりした者もいました。
しかし、子供は生まれませんでした。
いえ、生まれはしたのですが、母親の体から出たその時、すでに死んでしまっていました。
そしてそのお産の失敗により母親……つまりは、偉い人の奥さんまで死んでしまいました。
偉い人は今、ひどい悲しみにくれていて、そしてそれを知った村人たちも泣いているのです。
「そう、それは……悲しいことね」
少女は説明してくれた大人に頷いて、そう言いました。
そしてもう少しだけ、言葉を付け加えました。
「死んでしまったのなら、それは仕方のないことかもしれない。
…………でも、それでも、これだけ生まれてくることを望まれて、
そして生まれられなかったことを悲しんでもらえたその子は、とてもとても幸せ者なのかも知れない」
少女がそう言うと、その言葉に大人たちはまたしても泣き始めました。
村中が、悲しみにくれました。
何も分かっていなかった子供たちも、自分たちの親が泣くので、いつの間にかつられて泣いていました。
少女は泣き悲しむその村から、人知れず去っていきました。
少女の背中には、人々の悲しい泣き声が、見送りとして響きました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
悲しい村を後にした少女は、さらにてくてくと進んでいきました。
天気はすでに回復しており、実に晴れやかで、少し前の雨が嘘のようでした。
大事な出産日に、ひどい雨が上がって、空に太陽が浮かんだ。
もしかすると、そんなちょっとした天気の移り変わりにも、あの村の人々は期待をしていたのかもしれない。
だから余計に悲しくなってしまったのかもしれない……と、少女は歩きながら考えました。
てくてく進んでも、次の村は見当たりませんでした。
やがて夜が来て、朝が来て、もう一度夜が来て、朝が来て……。
数日後、歩き続けた少女は次の村に到着しました。
少なくとも豊かではあった悲しみの村とは違って、ひどく閑散とした村でした。
ここの村人たちは修復をする気がないのか……あちらこちらの家がぼろぼろの有様でした。
中では長い間放って置かれ、そのまま自然と形を失ったらしい家の残骸までありました。
この村も悲しみの村と同様に、人の姿が見当たりませんでした。
少女は薄気味悪い村の中を、一歩一歩歩いていきます。
すると、村の大きさに見合った小さな人だかりを見つけることが出来ました。
歩み寄りながら観察して見ると、今度は大人ばかりで、子供が見当たりませんでした。
「止めろよ! 来るなよ!」
「そうはいかん。村の掟には従ってもらう」
「そんなもの、クソ喰らえだ! 俺たちはもう、この村を出る!」
「許さん。この土地を捨て、どこに行くというのだ!」
人だかりは、どうやら一つの小さな家を囲んでいるようでした。
囲んでいる人たちは誰もが痩せこけて、貧相な村の家々と同じ雰囲気を持っていました。
少女の身長では家の中を覗くことは出来ないのですが、
どうやら家の中には三人の人間がいるようでした。
一人は村を出るという、若い男。そしてその後ろで呻く女。
もしかすると、夫婦なのかも知れません。
そしてその二人の前に、村長であるらしい老人が立っていました。
「大体、子供を作るとは、何を考えているのだ? これ以上、食い扶持を増やすつもりなのか?」
「別に俺はあんたらの食い物まで取ってないだろう!? 放っておいてくれ」
「そうはいかん。お前がその女に自分の食べ物を分け与えている」
「それのどこが悪い!」
「ただでさえ、我々は飢えている。お前はそれ以上に飢えている。
そのおかげでどうだ? 畑仕事が他より進んでおらぬ。遅れをどう取り戻す?」
「それは…………」
「間引くしかないのだ。二人分浮けば、楽になろう」
「ふ、二人!? そんなことはさせん! こいつにも子供にも、手出しはさせない!」
「ならば、三人分だ。お前ら全員、皆この村の糧になってもらう」
村長が『やれ』と号令を掛けると、外で家を囲んでいた村人たちが、のろのろと動き出します。
皆口々に『すまん』やら『ごめん』と言った言葉を口に出します。
「ここまで来て、みすみす!」
男は家に入ってくる村人に拳を振り上げます。
「来るなよ! 入って、来るな!」
それは抵抗とは言えない抵抗でした。
やせ細った男に、やせ細った村人たちが群がり、そして押し潰していきます。
しばらく揉み合っていた男と村人たちでしたが、すぐに静かになりました。
村人たちの下敷きになった男の腕は、おかしな方向に折れ曲がってしまっていました。
「おい……」
村長は近くの村人に耳打ちします。
するとその村人は、抱え持っていた人の頭ほどの大きさの石を、村長に手渡しました。
「村長……やはり、おらが」
「いや。わしがやらねばならん。長の仕事だ」
村長はそう言うと、地面に這いつくばって、苦しんでいる男の頭に、石を振り落としました。
ごつんと言う音が、鳴りました。
同時にくぐもった音が、男の口から漏れました。
ついでに言えば、男の後ろで、男の妻であるらしい女が、ただただ嗚咽を漏らしていました。
「しぶといな」
そう言うと、村長は石を拾い上げて、もう一度男の頭に落としました。
男の体が、びくりと大きく震えました。
何度かその行為を続けると、男の頭はついに潰れてしまいました。
人の頭には、これほどまで多くのものが詰まっていたのか。
そう思ってしまうくらいの多くの濁った水が、地面に広がっていきました。
その広がりとともに、家の中には不快な匂いが立ち込めていきます。
その様子に、男の妻は半狂乱になって、叫びました。
しかし、多くの村人に身体を押さえつけられ、
夫と同じように頭を潰され、すぐに静かになりました。
倦怠感を感じさせるような静けさと、人の血の匂いが、その家の中に充満しました。
村人たちは死んだ二人の体を、家の外に運ぼうとしました。
お腹の大きな女の方は、少々運びにくそうでした。
「火を用意せねばならぬな」
「家ごと燃やしてしまうか」
「それでは、何もかも燃え尽きてしまう」
「ああ、食える肉が、なくなってしまう」
「…………む? 誰じゃ、このわらわは」
村人たちはようやく、自分たちの背後に一人の少女が立っている事に気づきました。
彼らは顔を合わせ、そして首を傾げます。
「迷い子か?」
「子供など、もうおらぬはず……」
「誰ぞ、我が子を隠しておったか?」
「まさか。おれば喰うておる」
村人たちは、この少女が誰の子供なのかを話し合いました。
しかし、自分が親であると言う人間は、誰もいませんでした。
「どこの誰の子供であろうと、構わぬ。大の大人よりは喰いやすい」
村長が、そう締めくくりました。
その言葉に、村人たちはうんうんと頷きました。
彼らの中の一人が、血のついた石を持って、ゆっくりと少女に近づきました、
少女は後ずさることもなく、自身に近づいてくる村人に尋ねます。
「私も殺すの?」
「仕方がないのじゃ」
「何故?」
「喰うものが、無いのだ。もう、この村にはな……」
「だから私を殺して、私を食べるの?」
「おぬし以外に、子供はもうおらんよ」
少女の質問に、村人は答えになっていない答えを返しました。
だから少女は嘆息して、別のことを聞くことにしました。
少女は家の中から運び出される二つの死体を指差しつつ、口を開きます。
「仕方がないから、殺したわけね。その二人も」
「そうじゃよ。仕方が、ないのじゃ」
「村を出て、食べ物を探さないの?」
少女は自分の歩んできたこれまでの旅路を回想します。
山には食べ物になりそうな食物はありましたし、川には魚もいました。
また、近くとは言えませんが、数日かければ子供の足でも行くことの出来る距離に、悲しくも豊かな村がありました。
物乞いでも何でもする気があれば、人を殺してそれを食べずとも、何とかなったのではないでしょうか?
「村を出ることは許されぬ。それが掟だ」
「そう。じゃあ、仕方ないわね」
「ああ、仕方がないのだ。村を出てはいけぬ。村から人が逃げれば、村が滅んでしまう」
「馬鹿みたい。村の子供を食べて、掟に逆らうものを食べて……それで滅びを先に延ばせていると思うの?」
話している間にも、村人の一人は少女の下へと歩み寄っています。
少女は自分の目の前まで歩み出てきた村人に、ぴんと伸ばした人差し指を突きつけました。
「あらかじめ断っておくけれど、私は別に人間を殺して楽しむ趣味は無いのよ?」
「何を言うておる?」
「分かりやすく言えば……殺されそうになったから、仕方なく殺すということ。今から、貴方を」
少女の指の先に、小さな小さな焔が燈りました。
「逃げるなら、追わない。でも、向かってくるなら燃やすわ。馬鹿につける薬はないもの。仕方がないことよね」
少女の言葉と、少女の指に燈る焔を見て、村人は逡巡しました。
しかし、結局は石を頭上に持ち上げて、少女に向けて振り下ろしました。
少女は石を軽やかに避けて、嘆息しました。
「馬鹿」
その一言に応じたのか、少女の指の焔は一本の糸のように、村人に向かって伸びていきます。
そして、村人は焔に身を包まれました。
全身が瞬間的に焼け焦げていき、村人はその場に倒れこみます。
悲鳴は上がりませんでした。
もしかすると、苦痛も感じなかったかも知れません。
ただ、人が燃え死ぬその光景は、ひどく恐ろしいものでした。
「ば、化け物だ! 物の怪だ!」
「人を喰おうとしていた貴方たちには、言われたくないわね」
「こ、殺すのだ! はよう! 生かして置いてはならん! 災いが来るぞ!」
村長が腰を抜かしながらに叫びます。
その様子に、少女は小さく苦笑しました。
「そちらが手を出さなければ、私は何もしないわよ?」
「何故、この村に来た!? 何が目的だ! 我らの魂かっ!」
「私は通りかかっただけで……」
「ええい、皆、かかれ! かかれぇ!」
村長は少女の言葉など、もとより聞く気がないようです。
少女の言葉に、村長の号令が重なりました。
少女はどうしたものかと思案し……結局自分に向かってきたものは、全て焼くことを決めました。
「私に殺されたくないのなら、私に立ち向かってこないで、逃げなさい。追わないわ」
少女は警告を放ちます。
しかし、それを聞こうとしたものはその場にいませんでした。
一人、二人、三人……五人…………。
村人はただただ少女に走りより、そして燃えていきました。
しばらくすると、村中に人の肉の焼ける匂いが立ち込めました。
もっとも、少女は焼けた人間の肉を食べようとは思いませんでしたが。
半刻ほどの時間が過ぎた頃でしょうか?
その村からは、村人は一人もいなくなってしまいました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
誰もいなくなってしまった村で一泊してから、少女はまた歩き出しました。
ひどく狭い野をすぐに越えて、彼女は小さな山に入っていきました。
青々と茂った木々には、相応に実がついていました。
美味しいかどうかは分かりませんが、少なくとも明日の糧になりそうな実でした。
少女は気まぐれにその実を取ってみました。
「……?」
木に手を伸ばし、実を取り……そこで少女は気がつきました。
木の後ろに、なにやら人が座り込んでいるのです。
ひどく弱々しい気配しか発しないその人は、女の人でした。
なにやら、胸に布の塊を抱いていました。
「そんなところで、何をしているの?」
「……だ、誰……ですか?」
女は目を瞑ったまま、少女の言葉に首を傾げました。
眼が見えないのか、それとも開くだけの気力が無いのか。
どちらだろうと少女は考え……恐らく後者だろうと推測を立てました。
少女は手にしていた実を懐にしまい、女の前にしゃがみこみました。
「旅の者よ。名は若藻。まぁ、通り名でしかないけれども」
「女の人の声……? 尼様、ですか?」
「それより、そう言う貴方は、ここで何を?」
「私は……人を待っているのです」
「人?」
「私の背子と姉です。私と姉は……その……身篭ってしまって。
でも、余裕のない今のあの村では、赤子は間引くことが掟で決まっていますから……」
「それで?」
「三人で村を出ることにしたんです。でも全員一度に出て行けば、途中で見つかってしまいます。
だから、私だけが先に。背子と姉が後から来るのを、ずっと待っているんです……」
女は胸の中の布を抱きなおしました。
その布の中からは、さびた鉄を思わせる不快な匂いが漂っていました。
「尼様は、この山を下りてこられたのですか? 登ってこられたのですか?」
「登ってきたわ。貴女の村でしょうね。通ってきたわ」
「村は、どうなっていました?」
「どうなっていたと思う?」
「…………分かりません。皆、元気にしていましたか?」
「皆と言われても、元からどのくらいの人数がいたのか、私には分からないわ。
まぁ、人はあまり多いとは言えなかったわね。
ああ、そう言えば村長は新しい『食べ物』を見つけていたわ。
丁度私が村に入ったとき、それの調理中のようだったわ」
「そう、ですか……」
女は少女の言葉に、笑うように肩を震わせて、泣き出しました。
「馬鹿、みたいです。村を抜け出して、こんなところで……」
「こんなところで?」
「私、もう……動けません。私の赤ちゃんも、もう死んでしまいました。
村を出さえしなければ、こんなことにはならなかったのに。山の中で、ずっと待って……私は、馬鹿。
村長が、食べ物を用意してくれたのでしょう? 村から出ようとしなければ、私もそれを食べることが出来たのに」
胸の中の布の塊を、女は強く抱きしめました。
「姉さんの子供は、もう生まれたのかな。尼様、誰か新しい子供が生まれたと、聞きませんでしたか?」
「…………一つの家に、人だかりが出来ていたわ」
「十月に、十日……そう、ですよね。もうすぐ、生まれるはずなんです……姉さんの赤ちゃんも」
「そう。それは、おめでたいわね」
「そうです。おめでたいんです。なのに、私と、私の赤ちゃんは……」
少女は女の頭に、すっと自分の指をかざしました。
「寝ているだけじゃないの?」
「そんなはず、ないんです。だって、もう、ずっとこの子は、起きてくれなくて」
「寝ているだけよ。寝息が聞こえるじゃない。ほら、静かにしないと、起きてしまうわよ?」
少女の言葉に、女は耳を澄ましました。
すると彼女の耳には、ここ最近聞こえてこなくなっていたはずの赤ん坊の寝息が聞こえました。
健やかな、聞いているものが安心してしまいそうな、そんな緩慢な呼吸の音でした。
「ああ、私……勘違いしていたんですね」
「貴女も疲れているのよ。眠った方がいいわ」
「でも、私は……」
「大丈夫。多分、もうすぐお姉さんが貴女を迎えに来てくれるから」
「そう、でしょうか」
「ええ。一緒に帰ればいいわ」
「そう、ですね」
女は我が子を抱きなおし、そしてそのまま眠りにつきました。
女と、その女の胸の中の子供が起きることは、もうありませんでした。
「………もっとも、貴女たち姉妹とその背子、そして赤ん坊の帰る場所は村ではないけれど」
少女は深い深い眠りについた親子から視線を離して、独白します。
「おやすみなさい。それじゃあ、縁があればまた会いましょう。来世にでもね」
少女は振り返らず、その場を後にしました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しばらく歩いてから、少女は一つの実を懐に忍ばせていたことを思い出しました。
しばらく思案してから、結局少女はその実を食べることに決めました。
軽く皮の表面を撫で付けてから、少女は実にがぶりとかぶりつきました。
「…………すっぱい」
美味しくなかったのか、少女は顔をしかめました。
そして一口だけかじった実を眺め、考えます。
食べるか、否か。
結論はすぐに下されました。
少女はその実を、方向も決めないまま力いっぱい投げました。
実はどこかに飛んでいきました。
「口の中が、変」
嘆息し、そう一言。
でも、仕方のないことなので、少女は諦めました。
そう。愚痴や感想を言っても、舌の不快感は拭えないのです。
仕方のないことなのです。
少女はまた歩き出しました。
てくてくと、どこまでも歩いていきました。
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