第九話



下水道の出入り口で、

まさかストリップショーを開催する羽目になるとは思わなかった。

もちろん人目などあるはずもないので、問題はさしてないが……。


私は濡れた服を脱ぎ、髪留めを取る。

この髪留めを、この場に置いていくよう決心するのに、私はかなりの時間を費やした。

これは貢物ではない。プレゼントなのだ。

その違いは他者には分からないかもしれないが、

私にとっては、大きな違いがあるのだ。

好いた男から、初めてもらったプレゼント。

甘い思い出など馬鹿らしいと思うし、物に執着することも愚かだと思う。

だが、それでもすぐには捨てられないものだった。


私にとって、この髪飾りは間違いなく、大切なものだったのだ。


この髪留めと同じものは、まだこの世に多く存在している。

これは伝説の魔具でも神具でもなく、

金を出せば買える大量生産された装飾品なのだから。

だが、自分で買い戻しても、

おそらく横島からもらったときのような高揚感は、ないだろう。

たやすく想像できる。自分で買い戻せば、そこにあるのは空しさだけ。


だが、持っていくわけにもいかない。

ここに全ての痕跡を残し、

この場で消滅したかのように、見せかける必要があるのだから。


私は人の形に服を並べる。

そう、自分が地面に倒れ伏した状況を想像して。

そして、私の頭があるであろう場所に髪留めを置いた。


「……すまない」


おそらく、あのハエ野郎はこれを回収するだろう。

その場で何体にも分裂し、その汚い手で私の服と髪留めを、どこかに持ち去るのだ。

この宝物は、おそらく二度と私の元には、戻ってこないだろう。

だから、私は別れの言葉を口にしてから、先へと進む。


悪臭の漂う、暗い下水の中、

肩から腹まで裂かれた体を気にしながら、進んでいく。


血は、もう流れない。

止血をしたわけではない。ただ単に、流れない。

もともと魔族である私の体は、人間のそれとは同じではない。

血液は酸素や栄養を供給するためのものではなく、

霊力の循環と、身体を構成するためのものだ。


それがなくなった。つまり、私はもう、死に掛けているということだ。

消えかかっている、と表現してもいいだろう。

覚束ない足取りは、まるで宙を彷徨っているかのような錯覚を受ける。


だが、駄目だ。

まだ消えるわけにはいかない。私は死にたくないのだ。

このまま地上に出て、どこか適当な場所で力の回復をしなくては……。


「はぁ、はぁ、はぁ」


下水道の中に、私の呼吸音が染み渡っていく。

人間は酸素をより体に取り入れるため、呼吸を荒げる。

なら、私は何のために、呼吸を荒げている?

人間だった頃の記憶が、体に染み付いているのか……。


下らないことを考えつつ、私はふと、視線を上げた。

壁に手をついて歩いていたのだが、その手に何かがぶつかったのだ。

私の視線の先にあるものは、梯子だった。

おそらく、下水道の中へと降りるため、地上から降ろされたものだろう。


「くっ」


私は、その梯子に手をかけた。

梯子はさび付いており、素手で掴むには少々適さない形だった。

だが、今の私には丁度いい。

手の平の皮膚を破って、食い込むくらいではないと、途中で下に落ちてしまうかも知れない。

梯子の鉄棒を強く握っているつもりなのだが、どうにも力が入らない。

それに…………どれだけ傷ついても、もう流すべき血は、ないのだから。



「…………これは」


梯子を上っていくと、

どんどんと地上が近づいていることが、音の気配で分かった。

下水道という閉鎖空間ではなく、

自分の頭上には、大きな空間があることが分かったのだ。

だが、地下と地上を分ける境界には、鋼鉄の分厚い板が存在していた。


「マンホールか……」


今の私で、押し上げられるだろうか?

通常なら、この厚さの鉄の板も、拳で貫くことも出来るのだが……。


「くうぅぅぅ……!」


今の私は、なんとも非力だった。

残された最後の力。

そんな言葉もあるが、すでに私には何の力も残ってはいない。

だが、それでも諦めるわけにはいかない。

いつまでもここにいては、いずれハエ野郎の追跡に追いつかれる。

川の底に潜って稼いだ少々の時間など、この状況ではないに等しいのだ。


「ふぁっ!」


考えられないほどの時間を使い、私は『蓋』を取り除く。

そして頭を外へと出すと……そこは道路の中央部分だった。

当たり前だろう。

マンホールというものは、民家の軒下や道路の端にあるものではない。


(もし、今見つかったら……)


蓋を開けたことで、疲労感はさらに強まったが、のろのろと行動する余裕はない。

私は下水道から地上へと完全に体を押し上げると、

足で蓋を元の位置に蹴り………直そうと思ったのだが、重くて動かないので、

結局手で押しやり、元の位置に戻した。


全裸で、マンホールの蓋をいじる女。

なんて、愚かしい情景だろう。

胸中で今の自分を一度だけ自嘲し、私は体を民家と民家の隙間へと押し込んだ。

どこかに適当な廃墟はないだろうか?

人の出入りのない廃墟。

居場所がばれた場合に、多少は動けるよう、そこそこの広さを持つ廃墟。


そんなものが、都合よくあるはずがない。

ここは都心の中央部に、一応属しているはずの区域なのだ。

いくらなんでも、都合よく廃墟が存在するはずがない。

そう考えつつ先を進んでいたのだが、急に目の前が開けた。

そこは、都心には珍しい広さの庭を持つ屋敷の一角だった。


民家の隙間やビルの間を通り抜けてきたが……この家は、誰の家だろうか?

そう思い観察してみると、壁はひび割れ、窓には板が張られている。

私が思い描いたとおりの、廃墟……だろうか?

いや、『空き家』だの『売家』だのといった看板は立っていないので、違うのだろうか?


(何にしろ、人の気配が感じられないのであれば、今はそれで十分か)


もちろん、私の気配を察知する能力は、他の能力同様にかなり弱まっている。

だが、庭の周囲には有刺鉄線が張られているので、

人は住んでいないと断定していいはずだ。


私は1階の部屋の窓の前に立ち、そこに張られている板を取り外す。

それも少々疲れる作業だったが、重いマンホールよりはマシだった。

釘の刺されている場所に、重点的に体重をかけるように、板に刺激を与える。

板の下から窓が現れれば、後は自身の肘で一撃すれば……窓のガラスは、破れた。


取り外した板は、庭の草で見えないように気をつけつつ地面に置く。

そして一応周囲を確認してから、

私は窓枠の残る破片を適当に排除して、その家の中へと侵入を果たした。


……とりあえずは……ここで…………。


何かしらの建物に入ることで、落ち着くことができたからだろうか?

私の意識は、急速に薄れだしていた……。


死にたくない……。


薄れる意識の中で、私はそう呟いた気がした。













            第九話      とある男爵の子供と……











出会いは突然……とは言いますけれど、

私のこれまでの60年を超える人生の中でも、

このような出会いは類を見ませんでした。


私の思い出の中にある『鮮烈な出会い』と言えば、

まず、私をこの世に生み出してくれた父上との出会いです。

父上を父上と認識し、言葉を交わしたとき、

そこでようやく私は、自分を何であるかを理解し、

そして生まれてきたことを理解しました。

その理解は、極めて鮮烈でした。

それまで生きていると言うか、

意識があるということも、実感していなかったのです。


自分は生きている。

それを実感する出会い。それほど凄いものは、まずありえません。


ですが、今日の出会いも、別の意味で鮮烈過ぎるものです。

ここは都心の一等地にある割りに、古びた屋敷です。

周囲には小学校やら中学校もあり、

お化け屋敷として、子供たちから興味を持たれることもあります。


ですが、これまでは……それだけでした。

興味を持ったからと言って、

夜中にこの屋敷に忍び込もうとしたものは、いません。

ええ、誰一人いません。仮にいたならば、私が追い出しますよ。

ここは私の家です。父上から頂いた、私そのものなのです。


おかしな人間が近寄ってくれば、

私は父上のタンスから形見のコートと帽子を拝借し、

出来うる限りの迫力で、相手を追い返します。

まぁ、もっとも。

繰り返しになりますが、

これまでこの家に侵入しようなどという不届き者はいませんでした。


庭の空いたスペースで、夜な夜な猫が集会を開いていますが、それはそれ。

不法侵入者たちですが、彼らならば可愛いものでしょう?


そんな60年以上平和を保ってきた我が屋敷に、今日は侵入者がやって来ました。


そう。屋敷の1階部分の窓の板を取り外し、強引に侵入してきました。

最低です。怪談を聞いた後の小学生でも、もう少し分別があるでしょう。

人の家には勝手に入ってはいけない。最低限の社会ルールですよ?


そう考えつつ、私は1階の侵入者の顔を覗き込みます。

いったい、誰がこの屋敷に入り込んだのか。

何はともあれ、相手の顔を確認しなければ、話が進みません。

もっとも、力任せに板を外し侵入する者です。

庭に来る可愛い猫たちとは、似ても似つかないでしょう。


そう考えていたのですが………なんと、侵入者は女性でした。

紫紺の長い髪を持つ…………何故か全裸の女性。

その表情は優れず、悪夢に魘されているようでした。

……いえ、意識がないようですので、実際魘されているのでしょう。


鮮烈な出会いですね。

60年以上、私はひっそりと暮らしてきました。

それがある日、全裸の女性が窓から不法侵入です。

仮にひっそりと暮らしていなくても、鮮烈な出会いでしょう?




「死に……たく、ない……」




女性の頬を、涙が伝います。

どのような夢を見ているのでしょうか?

ただの悪夢というよりは、悲しい悪夢なのでしょうか?


どうにしろ、このままにはして置けません。

正直、出て行ってもらいたいですが、

この状態で外に出すのは、あまりに非道というもの。

それに死にたくないと女性が口にしているのです。助けなければいけません。

我が父上は、爵位を頂いた正真正銘の貴族。

傷ついた女性を、面倒ごとを避けるために外へ放り出しては、

我が父の顔と名誉に、泥を塗りたくることにもなってしまいますしね。


私は2階にある父上のタンスから、コートとシャツを拝借します。

コートは私が着るためのもの。シャツはあの女性のためのものです。

女性の前に立つ以上、きちんとした格好がいいですし、

また、彼女も全裸のままというわけにはいかないでしょう。


彼女の体は少々汚れているようでしたので、ついでにタオルも数枚用意します。

準備を整えた私は、もう一度1階に降りました。

そして女性へと近づき、まじまじとその体を見つめます。

もちろん、彼女の体調などを知るためであり、疚しい気持ちは全くありません。


見てみれば……これまた驚かされます。

彼女の体は、肩から腰くらいまでに、何かで斬られていたのです。

おそらく、鋭い刀か何かでしょう。

少なくとも、ペーパーナイフやカッターナイフでは、こうなるはずがありません。


しかし、不思議なことに彼女の体からは血が流れていません。

傷口にもっと意識を傾けてみると…………おかしいです。

何でしょうか、この女性は。

血液の色が、髪と同じような色です。

人間の血液はヘモグロビンにより赤く見えるはず……。


女性を調べれば調べるほど、違和感を覚える私です。

首をひねりつつ彼女の体を拭き、シャツを着せ、ベッドへと降ろした時、

私はようやく彼女の正体に感づきます。


彼女は物の怪の類です。


それも、かなりの高位のものでしょう。

ここまでの傷を受けて、死せず回復が始まっているのが、その証拠。


ここまでの存在が我が家に近づけば、気づいてもよさそうなものですけれど。

侵入されるまで気づかなかったのは、彼女が弱りきっていたから?

それとも、私が最近ろくな食事を取らず、随分と弱っていたから?

あるいは、その両方が重なり合ったからでしょうか。


まぁ、どうしろ、

この女性が高位の物の怪であることは、疑いようがないと思います。

紫紺の髪と血が、その証明です。

さすがに私がうたた寝している間に、

世界の人々の血が紫になった……はずはないと思いますしね。


さて、何か料理を作って差し上げた方が、よろしいでしょうか?

それとも、ここは動物の生き血でしょうか?

しかし、生き血は商店街に買いに行けるものではないですし、

庭に来る猫たちから少しずつ分けてもらうというのも、アレですしね。

ああ、ワインならば、父上の残した古き良き物がありますが……。

駄目ですね。怪我人にお酒など。


私はこの女性との鮮烈な出会いに、少々興奮していたのでしょうか。

その日は珍しく、何やらそわそわと彼女が目覚めるのを待ってしまいました。


貴方は誰ですか?

何故、この屋敷に?

貴方は、妖怪ですか?


他人と久しぶりに話をすることになるから、という理由もあるのでしょうが、

私は謎の女性に対して聞きたいことを、胸中で列挙したりしていました。





      ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





額に、何やら冷たいものが置かれる。

その冷たい何かは、

額から頬へとすべるように移動して、私の顔に浮かぶ汗を拭き取ってゆく。

気持ちがいい。

何だろうか、これは。


夢か現か。

自分に入り込んでくる情報をまとめることが出来ずに、

私はひどく曖昧な境界の上で、ふらふらと揺れる。

もし、そこで夢に傾いたなら、私はもう数十時間は目を覚まさなかっただろう。

だが、実際の私は現実の方へと傾き、意識を世界へと戻した。


「んっ……」


気を失っていた。あるいは、眠り込んでいた。

そう自覚し、目を薄く開く。見えたのは寂れた木造の天井だ。

見慣れない天井だったが、見たことがないわけではない。

私が自分で侵入を果たした、あの廃墟の天井だ。

ここでこうして天井を見上げているということは、

私はまだハエ野郎に見つかることなく、生きていると言うことだ。


「目が覚めましたか」

「っ!?」


突然、話しかけられた。

誰だ、と思う前に体は自動的に反応し、飛び上がる。


しかし、私は転んでしまった。


立ち上がろうとして気づいたのだが、

私は何故かベッドの上に寝ており、あまつさえ白いシーツまでかけられていた。

ふかふか……とまでは行かないにしろ、

やわらかな地面の上で布をかぶった状態……さらには怪我も負っているのだ。

いきなり立てるはずがない。


私はベッド上に座りなおし、声の主の方を見やった。

……と、濡れたタオルが私の手の甲の上に落ちる。

これが先ほど感じていた『冷たい何か』だろう。

さらには、白いシャツが今の私には着せられていた。


「大丈夫ですか?」

「ああ」


私の視線の先には、帽子で顔を隠し、手袋をはめ、

あまつさえコートを着込むという、怪しい格好の『何か』が立っていた。

男か女か以前に……人間か?

その体から感じ取れる霊波は、ひどく単調で……まるで人形だ。


「何者だ? 名前は? 私に、何をした?」


「名前を聞くときは、自分から名乗るものでしょう……と思いますが、

 どうやら貴方も少々混乱しておられるようなので、

 私から自己紹介をしましょうか。

 私の名前は渋鯖人工幽霊壱号。この屋敷に宿る魂そのものが、私です。

 貴方は言うなれば、私の『中』に不法侵入したわけです。

 そして見てみれば傷を負っていたようですので、とりあえずベッドに運んだ次第です」


そう言うと、コートの中身は霧になるように消えうせる。


『今のコートの体は、貴方の手当てに体が必要なので、作っていたまで。

 失礼ですが、少々疲れましたので、今からこの状態で話をさせていただきます』


私の頭上から、男とも女と持つかないひどく中性的な声が注がれる。

コートの体のときは、

まだそのコートが男物だったため、男だと思えたのだが……。

まぁ、建物である以上、

建築者が意図しない限り、無性であって当然か。


怪我でぼんやりしていたとは言え、

私は随分な廃墟に忍び込んでしまったようだね。



丁寧な口調でこちらに話しかけてくる『屋敷』相手に、私は小さく苦笑した。



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